『勇者ちはたの冒険』


――物置の片付け手伝って〜。
という母の声を起点にして、千隼は物置部屋の一角で荷物の山を相手に奮闘していた。
四人と一匹家族が共同で使う物置は、それぞれの占有スペースがなんとなく分かれている。長く使ううちに物が増え、このたびついにスペース同士がくっついて置き場がなくなったので、一家全員に片付けの指令が下ったのだった。もっとも今日は父がゴルフ、兄は大学時代の同期と遊び、犬は庭で寝ているので、今は母と千隼だけだったが。
自分の身長とさほど変わらないくらい詰まれた荷物は、使わなくなったおもちゃや、いつか履くかもしれない靴の箱、昔着た礼服、本棚から溢れた漫画など。ついつい漫画を読み返したくなる衝動を堪えながら、捨てていいものを選別し、捨ててはならないものを綺麗に収納し直していく。
「……あれ?」
ふと片付ける手を止めたのは、洋服を掴んだときに、布とは思えない小さな硬い感触を手のひらに感じたからだ。どうやらポケットになにか入っている。
「…………あ! これ……」
取り出してみて驚いた。それはずっと昔にプレイしていたゲームのソフトで、ラスボス直前で紛失してしまい、クリア出来ずじまいになっていたものだった。明日にはクリア出来るという状況でのことだったから、ずいぶんがっかりしたのを覚えている。きっと別のソフトに入れ替えたときにポケットに入れたっきりにしていたのだろう。
あったなあそんなこと、と昔を懐かしみ、シールの剥げかけたそれをじっと見つめる。この中ではまだラスボスが居城で待ち構えているし、空は暗く澱んで、人々は魔物に怯え、ヒロインは封印されたままだ。 キャラクターたちの顔を思い返していくうち、今こそこれをクリアするときでは、という高揚が湧き上がってくる。また一方で、大きな障害があるのも分かっていた。なにかといえば単純なことで、この古いゲームをプレイするためのハードが手元にないのだ。次世代機に互換性はなく、プレイしたければ買い直すしかない。
物語をハッピーエンドに導きたい気持ちはあれど、そのために古いゲーム機を用意するのは骨が折れる。どうしようかなあ、と考えていると、不意に足にふわふわした感触が触れた。
「わふ」
見れば、柔らかな毛並みのゴールデンレトリバーが座り込んで見上げている。ぱたぱたと尻尾を振って、きらきらした瞳の輝き。
たぶん彼は「遊んで」とか「散歩いこ」とかいうつもりで見つめているのだろう。けれど悩みの渦中にあった千隼にとっては、そのまっすぐなまなざしが背中を押すように見えてならなかった。
救うべき世界がそこにある。ヒロインだって待っている。きっとこんな瞳で。
「大丈夫、ちゃんと助けるからね」
毛深い首回りや胴を撫でまわしながら宣言すると、愛犬はわふわふと嬉しそうに尻尾を振った。
取っておいたお年玉でゲーム機を買って、今こそ世界を救おう。みんな助けて、ハッピーエンドを迎えるのだ。
――十年ぶりに。

   ***

「……それで、うちに」
玄関から顔を覗かせた新は、ぽかんとした様子で(傍目にはほとんど変わらないけれど)そう言った。「うん」と千隼はにこにこしながら告げる。
「おれひとりでクリアしても意味ないでしょ。だから今日、一緒にやろうと思って」
「いきなりだな」
「暇じゃなかった?」
「いや、大丈夫。……そうか、あれ、あったのか」
新は過去を偲ぶように視線を中空へ投げる。あのゲームをプレイしていたのは千隼だけではない。あの頃ほとんどのゲームは新と一緒にプレイしていて、これもそのひとつ。ソロプレイ用だったので、どちらかが操作している間はもう片方は画面を覗き込んで、ふたりで楽しんでいた。
だからクリアするのもふたりで。そう思って千隼は、物置の片付けが済んだ正午過ぎ、新の家に訪問したのだ。
「……うん、分かった。やろう」
「ゲーム機買いに行くところからだけど」
「ああ、大丈夫。久々に――」
新は微笑んでしゃがみ込み、尻尾を振りたくる犬の首周りを撫でる。
「君とも散歩したいし」


日課の散歩を兼ねて街へ繰り出したふたりと一匹は、無事に駅前通りのゲームショップへ到着。中古で売られていたゲーム機(箱、説明書なし)を購入し、目的達成を喜んだ。
そのまま直帰することはせずに、いつもの散歩コースに従って近所の公園へと向かう。リードを持っているのは新で、千隼はゲーム機を大事に抱えていた。昔はあんなに小さかったのに、と新がリードに引っ張られながら愛犬の成長を感嘆した。
木漏れ日の中を歩きながら、千隼はゲームを再開する瞬間を待ちわびる。十年前にぶつ切りになってしまった物語が、今になって完結の機会を得られるなんて。ポケットのなかで眠っていたソフトは、いつかはかならず見つかったのかもしれない。けれどそのとき新が帰ってきていなければ、千隼はきっと再開しようとは思わなかっただろう。新がいて、千隼がいる、もっといえば愛犬もいて、それでようやく役者がそろうのだ。
「ねえ、覚えてる?」
ゲームへ想いを馳せるうち、その高揚を共有したくなった。リードの扱いに苦心する新に話しかければ、彼は振り返ってぱちりとまばたきをする。なにを、と視線が問う。
「あの頃さ、毎日おれんち来てこのゲームやったなあって」
「ああ、うん。ストーリーが面白くて、続きが見たくって」
「なんにも約束せずに、当然みたいに一緒に帰ったよねえ」
「そういえば俺までただいまって言ってた気がする」
「秦野新だったもんね」
それは確か、兄が冗談交じりに言った呼び方だったはずだ。新は千尋の第二の弟みたいなものだった。
そういえば、と芋づる式に思い出す。呼び方と言えば、主人公の名前にも思い出がある。
「ねえ、主人公の名前覚えてる? デフォルトじゃなくて、変えたでしょ」
「ああ……、変えた。覚えてる」
「ほんと?」
「名前を決めるのに、君とずいぶん活発な意見交換をしたから」
「半分くらい喧嘩だったね」
冗談めかして言えば、新はくすりと笑ってくれた。実際には半分も喧嘩していなかったかもしれないが、熱心に意見を交わしたのは事実だ。
なにしろお互いに自分の名前を推したので。
正確に言うと、新は「これはちはやのゲームだから」と最初から納得していた。が、実はこのゲーム、名前を変えられるのは勇者だけでなくヒロインもなのである。「おれが勇者ならあらたはお姫様にするね」という何気ない一言により、始まる前に終わったはずの名付け論争は紛糾してしまったのだった。
やれ「ちはやの方が女の子っぽい名前だからお姫様でいい」とか、「あらたの方がお姫様のデフォルトネームに近いじゃん」とか。やいのやいのとやり合っていると、当時はまだ子犬だった愛犬が構ってもらえると思って飛びかかってきたのを覚えている。それで白熱した空気は霧散してしまい、最終的には互いに歩み寄って、勇者につけられた名前は、そう――
「……ちはた、だったな」
同じように過去を反芻していたらしい新が、呆れたように笑って言う。今思えば笑うしかない単純さだ。どちらの名前も付けたいなら、足し合わせてしまえばいい。そんな理由で勇者は千隼と新どちらもの分身となった。
「そろそろかえろっか」
思い出に浸っていると、どんどんゲーム欲が高まってしまう。ちょうど散歩もいい具合だからとそう尋ねれば、新は「うん」と家の方向へ舵を切った。


散歩を終えて家に帰り着くと、息つく間もなくゲーム機をセットして起動を確認する。ハードもソフトも問題なく、件のゲームのタイトル画面がテレビ画面に映し出された。達成感とともに新と視線を合わせてから、セーブデータを読み込む。これも問題なし。ラストダンジョンの前で佇む勇者一行という、驚くほど昔の記憶を呼び覚ます光景が広がった。
そういえばこんなグラフィックだったなあ、と感慨深くなりながら操作感を確かめる。慣れないゲーム機を操るのは不思議な感覚だ。「おれが操作していいの?」という問いには「見てる」と簡潔に返ってきた。
ラストダンジョンに突入し、敵幹部最後のひとりを討ち果たす。伝説の杖を覚醒させるための輝石を取り戻し、主人公をパワーアップ。捕えられていた賢者を助け出して加護を貰えば、いよいよ残るはラスボスの間だ。
直前にセーブをして、【最後の戦いへ挑む】の選択肢にカーソルを合わせる。いいよね? と視線で新に問いかけた。
「……昔からそうなんだが、」
新は答える代わりに、画面を見つめたままぽつりと呟いた。
「楽しくゲームを進めて、もうクリアするというところまで来ると、なんだか尻込みしてしまう」
それはどちらかというと後ろ向きな発言だったが、彼の様子にいつもと変わったところはなく、きっと単なる雑談なのだろう。あー、と千隼は納得の声を上げる。
「あらたってそうだよね。RPGとかやってるといつもじゃない? まだ終わらなくていい、ってラスボス倒さずに寄り道しまくるでしょ」
「ストーリー性のあるゲームだと……クリアして終わってしまうのが寂しくて」
「おれそういうの全然ないなー。レベルが足りてたら速攻で倒しちゃう」
「もっと世界に浸っていたいというか、キャラクターたちと仲間のままでいたいというか」
「うーん」
新の目はずっとゲーム画面に注がれたままだ。変わった様子は見えないけれど、今もゲームとの別れを惜しんで、寂しがっているのだろうか。
「仲間たちがその後も生きていくのに、俺は置いて行かれるような気がして」
選択肢の横でカーソルが点滅し続けている。ひとつボタンを押せばストーリーは進み、もう後戻りは出来ない。世界を救って、さようならになる。
それを決定しあぐねていると、不意に新が振り返った。
「どうした、進めないのか」
「えっ、進めていいの?」
「そのためにわざわざハードまで買いに行ったんだろう」
なにを言ってるんだとばかりに彼は言う。びっくりしていると、背後から重くて軽快な足音がやってきて、千隼と新の間に割り込んだ。
「ほら、急かしに来た」
新が微笑んで、愛犬の大きな体を存分に撫でまわす。わふわふと嬉しそうな鳴き声があがって、尻尾が千隼の腕を撫でた。
どうやらやっぱりあれは雑談でしかなかったらしい。拍子抜けしながら「進めるよ」と宣言して、今度こそ決定ボタンを押した。


第五形態まで変身したラスボスを倒し、さすがに六はないよねとふたりで顔を見合わせたところで、ようやく撃破のムービーが流れ出す。ここまで長かった。まさか形態を変えるごとに回想シーンが五分近く入るなんて。やっとクリア出来ると思うと、勝利の喜びもひとしおだ。
ラスボスを倒した勇者一行は、城の最上階に封印されていた姫のもとへ辿り着く。賢者の宝玉の光を浴びて結晶が砕け散れば、解放された姫が降り立った。
ゆっくりと目を開けた彼女は、一行へ微笑みかける。
「あなたのおかげで魔王の手を逃れることが出来ました。本当にありがとう、勇者ちはたと仲間たち」
「お救いすることが出来て光栄です。さあ国へ帰りましょう、わっふる姫!」
勇者がちはやとあらたを足してちはたと名付けられたので、姫はどちらの名前を借りることもなくわっふると名付けられた。美味しそうな名前の彼女は、それから勇者たちと一緒に国へ帰り、国民に出迎えられる。魔王の脅威が過ぎ去った世界で、これからも幸せな日々が続いていくのだと示唆されたところでゲームクリア。
暗転した画面にスタッフロールが流れる中で、千隼は全身から力を抜いた。
「終わったねー」
「ああ」
「ちゃんとクリア出来てよかったー」
「そうだな」
答える新も、どこか緊張が解けたような雰囲気だ。ゲームクリアを純粋に喜んでいるように見えて、心配は杞憂だったかなと思い直す。
「寂しくない? 平気そう?」
「まあ、少し寂しいが。……そんな心配しなくても大丈夫」
「きみは寂しがりやだからさ」
「そうだな。よく知っている通り。……でも、」
そこで新は、気恥ずかしそうに目を伏せた。
「仲間たちと別れて、現実に立ち返ったときも……君が隣にいてくれるから大丈夫」
ゲームは終わってしまうけど、楽しいことはもっとたくさん待っていると思えるから。そう言う新の横顔を、千隼はちょっと感動しながら見つめていた。胸の奥深いところがきゅっとした気がする。
新が戻ってきてくれてよかった、と心底思った。大好きなともだち。大切な幼馴染。それはきっと、彼も思ってくれていることなのだろう。
と、ふたりして感慨深くなっていると、その空気を感じ取ったのか、愛犬が「なにか楽しいことあった?」とばかりに近寄ってくる。新はそれを迎え入れて、「それに、」と続けた。
「やっと”君”を救い出せたから嬉しいんだ」
なあ、わっふる。
名前を呼ばれた愛犬は、ことさら嬉しそうにわふわふ鳴く。名付け論争に終止符を打った結果、自分が姫の名前になってしまったオスの愛犬。その毛並みを新と一緒に撫でまわし、おかえしとばかりに顔を舐めたくられ、笑い合う。
そうしているうちにスタッフロールの終わったゲーム画面には、「HAPPY END」の文字が刻まれていた。