『我が家のななふしぎ』


「兄ちゃん、あのね、ななふしぎ……」
そんな言葉とともに服の裾をくいくいと引っ張られたので、始は宿題を解く手を止めて振り返った。
「ん? どうした」
幼い弟を抱き上げ、自分の膝の上に座らせてやる。新は言葉を考えているのか、始の胸にしがみついたまま静かになってしまった。左手で背中を支えながら、右手でつむじの跳ね毛をいじっていると、やがて話し出す。
「あのね、ななふしぎ、見つけたんだよ」
「七不思議? すごいな、どこで見つけたんだ?」
「家のなか」
「うちで?」
驚いて問うと、弟はこくんとうなずく。
「家のなかで一緒に探して、ななつ見つけた」
一緒にというのは、この間家に遊びに来ていた千隼だろうか。ふたりでくすくす笑いながら家の中をうろちょろしていたのは覚えている。なにをしているのかと思えば七不思議探しとは。
思い返せば小学生の頃、学校の七不思議をこじつけて作り出そうとしている連中がいたような。それを自宅でやってしまうのが、未就学児のスケール感を感じて微笑ましい。新はまだ5歳で、始はもう13歳だった。
「そうか、ななつも見つけたのか」新の頭を撫でてやると、心地よさそうに目が細められる。「どんな不思議があったのか、俺にも教えてくれるか?」
「うん。あのね、見に行く?」
「ああ」
宿題のノートを閉じて、筆記用具を脇によける。宿題よりは七不思議の方が断然楽しそうだ。


まずはじめに案内されたのは、隣にある新の部屋だった。いったいどんな七不思議が飛び出してくるのかと興味深く思っていると、彼は外へ通じる窓を指差す。
「あのね、今は違うんだけど、雨が降ってるとき……」
「雨のとき?」
「うん。いつもじゃないんだけど、雨が降ってるときね、雨がガラスを通り抜けてくるんだよ」
「うん? 雨漏りしているのか」
「ん……分かんない、けど……。雨が降ってると、外側に、水滴がつくでしょ」
「ああ」
「でもね、内側にも水滴が、ついてるときがあるの」
「……ああ」
ピンときた。きっと弟が言わんとしているものは、雨ではない。
「新。内側に水滴がつくのは寒いときじゃないか?」
「……そうなの? 分かんない」
「おそらくは。だとすれば、それは雨じゃない」
新の目がまん丸くなり、ぱちりとまばたきをする。なんで? とその目が語っている。始は微笑んで、「説明するから、おいで」と新の部屋を出た。
向かったのは台所。グラスを手に取り、水と氷を入れる。それを新の前に置いてから説明を始めた。
「窓の中が濡れるのは、結露という現象なんだ。……まずはじめに、空気には水分が含まれている」
「え……」
「目には見えないがな。この水分は、空気が暖かいとより多く中に入っていられる。逆に空気が冷えると、たくさんは入りきれなくなって押し出されてしまう」
「そしたら水になるの?」
「そうだ。……冬の、特に雨が降っている日などは、外は寒いだろう。けれど中は暖房を入れているから暖かい。すると、部屋の中の温かい空気が冷たいガラス窓に触れることで急に冷やされる」
「……うん」
「すると水分が入っていられなくなって、押し出された水が窓にくっつくんだ」
「じゃあ、雨が染みてるんじゃないんだね」
「そう。ほら、これを見ろ」
最後の仕上げに、始は氷水の入ったグラスを指差した。時間を経たそれは、まさしく結露を起こして水滴に濡れている。新は目を輝かせ、机に顎をのせると、グラスと視線を合わせた。
「ほんとだ。コップが冷たいから、空気が冷えて、水が出てきちゃってるの?」
「そうだ。これと同じことが窓でも起こる」
「……そうなんだ……」
始にとっては当たり前の現象だったが、幼い弟にとっては興味深い出来事だったらしい。グラスから目を離さず、「すごいねえ」と独り言ちた。
「兄ちゃん、そしたら、これななふしぎじゃなかったね」
「あ。そうだな……」
「でもね、まだあるんだよ」
七不思議のひとつを失ったとはいえ、弟は気にした様子もない。「こっち」と始の手を引いて、やってきたのは玄関だった。靴は下駄箱にしまわれ、これといって調度品もない、ごく普通の片付いた玄関だ。
「あのね、ドアがあるでしょ」
「あるな」
「僕が今から外に行って、質問するから、聞こえたら兄ちゃんは答えて?」
「ああ、いいぞ」
頷けば、新はいそいそと扉の外へ出ていく。少し待っていると、やがて頑張りの窺える声量で「今日の、ばんごはんは、なーに!」と聞こえてきた。
「肉じゃがだ!」
答えてやったものの、それから音沙汰がない。不思議に思っていると、ややあってようやく扉が開いた。
戻ってきた新は始を見上げる。
「兄ちゃん、僕の声どれくらい聞こえた?」
「普通に聞こえたぞ」
「僕はね、兄ちゃんの声聞こえたけど、聞こえづらかった」
「ふむ」
「外から話しかけたとき、中にはすっごく聞こえるけど、中から話しかけても、外には聞こえないんだよ。同じドアを挟んでるのに、中からと外からだと聞こえやすさが違うのは、なんで?」
新は始の腰に抱き着きながら、そうたどたどしく問うてくる。始はその肩を抱き寄せながら「うーん」と首をひねった。
「詳しい構造はよく知らないが……。単純に、中と外では騒がしさが違うというのもあるんじゃないか。外というのは静かなようでいて、案外音で満ちている」
「そうなのかな」
「車の走る音、人の話し声、風の音。家の中よりはよほどな」
「じゃあ、外がすっごく静かなときに、家で騒いだら、聞こえる?」
「そうだな。だから夜はあんまり騒いだら駄目だぞ」
生まれてこの方、新が騒ぐところなど見たことがないが。弟は素直にうなずいて始から離れた。
「これもあんまりふしぎじゃなかったね」
「そんなことはない。日常の不思議に気づけるのは、新の頭が良い証拠だぞ。俺がお前くらいの時は気にもしていなかった」
「そう、かな」
新ははにかむように笑って、始の服の裾をきゅっと掴む。
「じゃあ、次のななふしぎ、見る?」
「ああ、もちろん」
嬉しそうに笑って駆け出す姿が可愛らしく、自然と表情が緩んでしまう。服を引っ張る力を無下にしないよう、始も小走りであとに続いた。
そうして弟に連れられて行った先で出会った不思議は、どれもとても微笑ましいものだった。
みっつめの不思議は、「なくしたものを、もう探したはずの場所から、あとで見つけるのがふしぎ」。以前になくしたからと一緒に探したレッドのシールをを見せながらのことだった。
よっつめの不思議は、「3時くらいに兄ちゃんのベッドに寝ると、ぜったいにすぐ寝ちゃう」。ぜったいなんだよ、と豪語しながらベッドに寝転がった新は、ものの数十秒で寝息を立て始めた。起こすのも可哀想なので、始も一緒に昼寝をした。
いつつめの不思議は、「切ったはずのたまねぎがちょっと成長してる」。冷蔵庫の野菜室を開けた新は、半身で保存してあるたまねぎを見せつけながらそう言った。たしかにたまねぎの断面は、切った通りの水平ではなく、一部が伸びたのかでこぼことしているようだ。たまねぎは丸のまま放置しておけば芽が生えてくるのだと教えると、「もう植わってないのに?」と仰天していた。野菜や果物は案外収穫した後も成長を続けるものだ。
こうして新の”ななふしぎ”を聞いていると、こどもの発想は面白いものだと思う。次はどんな不思議が飛び出してくるのか予想がつかず、わくわくしてしまう。
さて、むっつめは。七不思議も終盤に差し掛かると、新はこれまでとは一転、真剣な顔で始を見た。
「次はね、ほんとにふしぎなんだよ」
「ほう?」
そう言うならば、こちらもそれなりの心構えで聞かなくては。緩んでいた表情を引き締め直し、「こっち」と先導するあとについていく。
辿り着いたのは新の部屋だ。弟はクローゼットを開けると、「ここだよ」と指をさす。
彼が示しているのはクローゼットの扉、それも内側の上部。視線で辿っていくと、新どころか始の背丈すら超えた位置を指しているのが分かる。よく見ればそこには傷があった。
尖ったもので引っ掻いたような、横一文字の小さな傷。これは、と始は目を見開く。
「ねえ、兄ちゃん」新はこれまでになく不安そうに、始の服を握る。「その傷、ちょっと怖い」
「怖い? どうして」
「だって、誰も届かないところに傷があるんだよ。……もしかしたら、クローゼットのなかに怖いものがいて、そいつが傷つけたのかも」
弟はぞっとしたように、クローゼットの暗がりを見つめる。そこには服やおもちゃが申し訳程度にあるだけで、怪物の姿などない。始はむしろ、もっと物を買ってやりたいと悲しく思ってしまった。
「大丈夫だ、新。怖いものなんていない」
「でも、じゃあ、これなんの傷……?」
「……覚えていないんだな」
これがなんの傷なのか、始はしっかり覚えている。けれど新が忘れてしまったのもしょうがない。あれは今よりもさらに小さく、物心つくかつかないかというころだったから。
始は新のベッドに腰かけると、不安がる弟を抱き上げて膝の上に載せる。
「あの傷をつけた者の正体を教えてやろうか」
「……うん」
「お前だ、新」
柔らかな頬をつつきながら言うと、新の目が丸くなる。え、と半開きの口から戸惑いの声が漏れた。
「僕? いつ?」
「あれは2年ほど前か。お前がなにかのアニメで見たんだったか……。家の柱に身長を刻むというのを覚えてきたんだ」
よくあるやつだ。柱にぴったり背をつけて身長を刻む。一定の年数でそれを繰り返し、成長を測る……。新はそれをやりたいと言い出した。
「だからクローゼットの内側に立たせて、お前の身長のところに印を作ったんだ。ほら、その下の方」
指で示すと新は振り返って目を凝らす。今の身長よりずっと低い位置に、その印はあった。見ていると、3歳の小さな新の姿が目に見えるようだった。
「けどな、そのアニメでは、10年後になりたい身長も一緒に刻んだんだそうだ。だから俺がお前を肩車して、好きな場所に印をつけさせた」
「僕が……」
「大変だったんだぞ」
なにしろただ肩車するのでは足りなかった。11歳の始が3歳の新を肩車して「ほら、やれ」と促すと、弟は「もっとうえがいい」とぐずったのだ。仕方がないから台を持ってきて、肩車をして慎重に乗り上げ、やっとのことで理想の身長を刻み付けた。
それがあの傷の正体。「思い出せたか?」と尋ねると、新は呆けた顔で首を横に振った。
「ぜんぜん覚えてない」
「3歳だからな」
「じゃあ僕が……13歳になったら、あの身長になるってこと?」
「それは……」
今の始がちょうど13歳であり、あの印にはまったく届かないことを考えると、新がこの通りの身長になるには、始より遥かに背が高くならなくてはならないということである。始はさして体格がいい方ではないが、新も似た成長の仕方をしているのを見ると、あの印まで届くのは無理があるかもしれなかった。
が、高い位置にある印を見上げ、期待に目を輝かせている新に、そんなことは言えず。
「……好き嫌いせずに食べれば、あるかもしれないな」
「うう……」
せっかくだから好き嫌いを直すきっかけになればと、そう言うに留めた。
「……それで、」
始は新を抱き上げて床へおろすと、自身も立ちあがる。
「いい機会だ、今の身長も記録するか」
しょんぼりとしていた新は、それを聞いてぱっと表情を明るくする。うん、と頷いて、クローゼットへ駆け寄った。
始は彼を扉に沿うように立たせ、頭の位置を測る。先ほど見た3歳の記録からすれば、今はずいぶんと大きくなっていた。いつまで経っても幼いと思っていた弟だが、きちんと成長しているのを目の当たりにすると、何とも言えず感慨深くなる。
「印をつけるぞ。動くなよ」
自身の部屋から持ってきた彫刻刀で、真一文字の傷を作る。いいぞ、の言葉とともに振り返った新は、3歳の印と見比べて、ほう、とため息を吐いた。
「僕、昔はこんなにちっちゃかったんだ……」
「ああ。大きくなったな」
「ねえ、ねえ、10年後の身長に印付けるやつ、僕もやりたい」
「ああ」
肩車してやると、ずっしりとした重みが肩に乗る。台に乗ると、新の手は元の印を超えたところまで届いた。持たせた定規の角でがりがり削れば、新15歳の理想身長の出来上がりだ。
満足して新を下したところで、そういえば、と始は思い出す。
「七不思議だから、もうひとつ不思議があるんだろう?」
すると新はぱちりとまばたきをして、「あれ?」と首を傾げた。
「僕、ななつ言わなかった?」
「まだむっつだな」
「えっと……いち、に、さん……」
短い指を折りたたみながら数を数え、6までいったところでぱっと顔を上げる。
「……数えまちがえてた……」
「……ふっ」
呆然としたように言うものだから、さすがに耐えきれず笑ってしまった。片手を超えた数は、まだ新には難しかったか。
笑われたことが悔しかったのか、新は始の胸に頭を押し付け、ぽかぽかと叩いた。別に痛くもなかったが、「悪い、降参だ」と非を認める。
「まあ、いいんじゃないか。七不思議はすべて知ると悪いことが起こるそうだし、欠番の方がいい」
「けつばん」
「”ない”ってことだ。むっつで正解だぞ、新」
胸に埋められた頭をわしゃわしゃと撫でてやると、嬉しそうな笑い声があがる。ぎゅっと抱き着いてきた腕の力は、記憶にあるよりももう少し強くなっていた。
少々線は細くとも、大きな病気もなく健やかに育ってくれた。決して家庭環境がいいとは言えないが、心根も真っすぐで優しい子だ。
願わくば、これからも伸びやかに育ちますように――。始は未来に思いを馳せながら、扉の傷を見上げた。

   ***

扉の傷を見上げながら、新は過去に思いを馳せた。
あれは確か5歳のときだったから、15歳の今からすると10年ぶりになる。
見上げている、という言葉の通り、結局10年経ってもこの印には届かなかった。絶望的なまでの距離感がある、と言っていい。
身長が揮わなかったのは残念だが、けれど新は不思議と晴れ晴れとしていた。あの頃からの10年間、辛いこと、楽しいこと、様々なことがあった。その結果として今の自分があるのだから、これは誇るべき成長だった。
「……身長は、もう少しあってもよかったけれど……」
まあ、まだ伸びる。そう独り言ちて、ゆっくりと扉を閉じた。