『思い描いた日』


というわけで、この小説は「成長」がテーマでした。それでは君たちも10年ぶりの出来事を思い返してみましょう。子供の頃行った公園にもう一度行ったら小さく感じたとか、一度食べて以来好き嫌いしていた野菜を食べられたとか。きっかり10年でなくともいいんです。9年でも11年でも、そこは臨機応変に。厳密にはやりませんから。
来週のこの時間に作文提出です。ちょうど鐘が鳴りましたね、ご機嫌ようさようなら。


一方的にそう告げたのは担任教師で、言われたのは道徳の授業を受けていた生徒たちだった。その中のひとりである仁は、うへえ、と誰にも見られないよう顔を歪める。
面倒くさい。作文を書くのも面倒だが、そこはまあいいとして。本当に気が重いのは「10年前を思い出す」という行為そのものだった。
過去なんてせっかく過ぎ去ったものを、今さら思い返すことはないのに。作文として提出するのだから、それなりに健全で前向きな成長を感じさせるものがいいんだろう。果たして自分にそんなちょうどいい出来事があっただろうか。例えば10年前に「びんぼー人って嫌い」と指をさして笑った女がつい先日「え、君があの遠藤くんなの? ……へーめっちゃかっこよくなってるじゃん……連絡先交換しよ?」と目の色を変えた出来事だとか。
「メンタル疑われるな、それ……」
机に上体を寝そべらせながら呟くと、同時に視界を遮る人影がある。反射的に首を逸らせて見上げれば、そこにあったのは見慣れた顔。
「メンタルを疑われるのか」
無表情無感動、言われた言葉を繰り返すインコだってもうちょっと感情表現する、というような佇まいでいたのは新だった。少し付き合えば彼がそれなりに感情表現することは知れるのだが、こういう”無”のときもやはりそれなりにあるのは再確認できる。けれど冷たい印象にならないのは彼の人柄ゆえか。
仁はぱっと笑みを浮かべると、上体を起こして向き直る。
「そう、このままだと先生にメンタルを疑われるわけ。なにかいい案ないかな、新くん」
「案って、なんのだ」
「良い感じのイベントを起こすために過去に戻る方法」
「良い感じのイベントってなんだ」
「今より未熟だった頃の自分を実感するようなイベントだよ。比較して今の自分の成長を尊ぶわけ」
「…………さっきの授業の話か」
ようやく合点がいったらしい彼に、雑談がてら「お前はなに書くの?」と振ってみる。あわよくば参考にしようと思ったのだ。
「……この間、10年ほど前に授業で書いた読書感想文が出てきたんだ。また読みたくなったから図書館で読んでみたんだが、当時では理解できなかった登場人物の心の動きなどが今なら理解出来て。感想も変わってきたから、それについて書こうかと」
なんとも優等生な回答だ。お手本みたいにお行儀がよく、女の手のひら返しが真っ先に思い浮かんだ自分とは対照的で、思わず肩をすくめる。この清潔さは参考にならない。
「いいなあお前は、先生好みの発想が出来て」
「……別に、先生におもねっているわけじゃない」
「素だもんな。俺こそおもねらないと書けるもの思いつかねえんだよ」
「難しく考えず、まずは10年前の自分を思い出せ」
「……あんまさあ、昔のことって、思い出したくないじゃん?」
もう一度机に突っ伏し、脱力する。気の進まないことをしようとすると、どうしたって精神力がすり減る。この授業は体育のあとにあるから、なおさらかったるい。
額を机に擦り付けて「うーん」とか「むー」とか唸っていると、やがて、頭上から「ふむ」と思案する声が聞こえた。
「君が今、得意とすることはなんだ」
「得意なこと? なんで」
「きっとそれは、10年前よりも成長した結果のはず。であればそれについて、昔と今を比べれば、趣旨に合う作文が書けるんじゃないか」
10年前を思い出すことから始めるのではなく、今の得意なことから逆算すればいい。彼はそう言って「どうだ?」と首を傾げた。
なるほど、発想を逆転させてみるとなんだか書けそうな気がしてくる。仁はやっと体を起こし、笑みを作った。
「いいなそれ、やってみるよ」

   ***

10年前、「”あなたの思う最高に楽しい一日”を想像して作文に書く」という授業があった。そこで仁が書いたのは、友達とどこかへ遊びに行って、美味しいものを食べて、最後にはお泊り会をする、というもの。それはあくまで想像だったが、つい先日、友人と想像通りの一日を過ごすことが出来た。夢でしかなかった作文を10年越しに叶えることが出来て、自分の成長を実感した。

「……要約すると、こんなかんじの内容を書いて提出したわけ」
「いいんじゃないか。ずいぶん楽しそうだ」
「まあ嘘なんだけど」
「は?」
感心したような声色が一転、乾ききったそれに変わるのを、仁は苦笑いしながら聞いていた。まあ怒るよなあ、と納得しながら。
夕空の元、自転車を押し歩きしながら話を続ける。
「これは作り話だから、俺は誰とも最高に楽しい一日を過ごしてないよ」
「……嘘の作文を提出したのか。アドバイスしたのに」
「もちろん、そのアドバイスに従ったんだ。さて新くん、俺の得意なことは?」
新は訝し気に黙りこくってから、やがてゆっくりと目を見開く。まさか、と小さく呟くのが聞こえた。
「……嘘が得意?」
「正解。俺の得意なことっていえば嘘なので、発揮してみました。昔は嘘が下手だったからな〜成長したな〜」
先生は微塵も疑ってなかったぞ、と付け加えれば、新は首を振ってため息を吐いた。
「……そんなつもりでアドバイスしたんじゃない……」
提出物で嘘なんて、とうなだれる。仁があえて軽い調子で「白紙を出すよりマシだろ、助かったよ」と励ましてみると、鋭い目つきが返ってきた。いつもなら苛々させるのは望むところだが、今回ばかりは他に目的があるのでこれ以上イラつかせるわけにはいかない。
「ごめんって。次は真面目にやるからさ」
「何事もそうしてくれ」
「……じゃあ今回も、なるべく嘘じゃない方がいいよな?」
目的に向かって舵を取ると、新は不思議そうに首をかしげる。
「……まあ、嘘じゃない方がよかっただろうな」
「ってことはさ、これから嘘を嘘じゃなくせば、ちょっとはマシなんじゃないか?」
「それって……」
薄々察したのか警戒の色を浮かべる彼に、仁はにっこりと提案する。
「今度の土曜日、遊びに行ってメシ食おうぜ」
「俺が?」
「お前しかいないだろ、この件に関わってんのは。ひとりじゃ叶えられないんだからさ」
手伝ってくれよ、と頼み込むと、ため息が返ってくる。乗り気ではなさそうだが、それでも結局了承してくれることを、仁は知っている。
「分かった。今度の土曜日だな」
「お、OK? よーし頼むぞー」
「まあ、俺にも責任があるし。それに、その内容なら難しいことでもない」
「あ、これ要約してるだけだから。実際は盛りに盛った一日を分刻みで詳細に描写したから、再現は大変だぞ〜」
目を見開いて絶句した新に「楽しみだな!」と言い残し、仁は分かれ道を曲がっていった。

   ***

問題となる土曜日の工程は、それはそれは過密に詰められたものだった。朝早くに集合して初めに向かったのは動物園で、定番の動物から希少な動物まで一気見したあとひよこのふれあい体験をしてアシカショーを見学。次は休む暇なく県境を超え江戸を舞台にしたテーマパークへ向かい忍者体験で手裏剣を投げたあと着物を着て写真を撮り舞台を見て次の目的地へ。牧場で乗馬体験をし濃厚ソフトクリームと採れたて卵のふわふわオムライスを食べひよこのふれあい体験をするとすぐさま蜻蛉返りし植物園で熱帯植物を観察、お菓子工場へ足を運びベルトコンベアで流れていく銘菓を見守りオリジナルお菓子を作って食べてお土産を貰い、国営公園へ足を伸ばして広大な花畑を一望した。
そして日が暮れたころ地元に戻り、馴染みのファミレスに入って一息ついているのが今だ。いや、一息つくというよりは、息も絶え絶えという方が正しいかもしれない。
いつでも背筋を伸ばしている新も、今ばかりは背を丸めてうなだれている。仁は椅子に浅く腰掛けて全身を背もたれに預ける体勢だ。ぐったりしているのは同じだが、新は疲れ切った面持ちで、仁は満足感に満ちていた。
ドリンクバーのオレンジジュースで喉を潤し、新は呟く。
「……君の、作文を、再現するには……物理的に時間が足りない……」
「ほんとな。遊ぶっていうか、チェックポイント通過して即次ってかんじになったな」
「行楽というか……苦行……」
「えー、結構楽しかったじゃん」
「大体、何で、ひよこのふれあい体験を二回やるんだ……」
「びっくりだなー。動物園と牧場で被っちゃったな」
「…………」
新はもう一度オレンジジュースを飲むと、やっと背筋を伸ばして座る。疲れは抜けきらないようだが、仁を睨みつける程度の元気は戻ったようだ。
「しかも、君のチョイスが妙にファミリー向けというか、こどもっぽい」
「い、いいだろ楽しいんだから!」
「前から思っていたが、君、好みがこどもだな」
「うるさいなあ、いいだろ好きなとこ行ったって! お前だって楽しくなかったわけじゃないだろ?」
確かに好き勝手に連れ回した自覚はある。けれどこれはあくまで「想像上の最高に楽しい一日」なのだ。同行の友人がまるで楽しんでいなかったのなら、さすがの仁も堪えてしまう。
が、新は首を振って、「楽しかった」とはっきり口にした。
「こんなにいろいろと遊びに行くことは、近頃なかったから。大変だったけれど、楽しかった」
丸い目は真っすぐに仁を見ていて、その言葉が真実だと伝えてくる。仁は今日とても楽しかったし、この友人だってちゃんとそうなのだ。ほっとして、仁はへらりと笑った。
「……よかった。ほんと、ありがとな。お前のおかげであの無茶な内容が達成できたよ。これで作文もほとんど嘘じゃなくなったな」
「次からは宿題で嘘を書かないでくれ」
「そのおかげでこんだけ楽しかったなら大正解だったかも」
「次はない」
あっさりと一蹴した新は、ややあって、「ところで」と話の向きを変えた。
「……君の書いた作文は、どこまでが本当で、どこからが嘘なんだ」
全部が嘘じゃないだろう、という言葉に、仁は笑みを浮かべる。
「なんでそう思うんだ?」
「君は、真っ赤な嘘はあまり吐かないだろう。いつか言っていた、嘘を吐くコツは真実を混ぜること、という通り」
「おお、覚えてるんだな。そう、確かに、あれは全部が全部嘘じゃない。最高に楽しい一日を想像して作文を書けってのは、10年前に本当にあった宿題だよ」
とはいえ、真実なのはそれだけだ。そう伝えると、新は瞳を揺らしてまばたきした。
「……つまり10年前の君は、今日のような一日を書かなかった?」
「そう。本当の作文は、こんなんじゃなかった」
書いたのはほんの一文。
――思いつかないです。楽しいことが分かりません。
サボったわけではなかった。延々と考えて、それでも思いつかなくて、いじけながら書いた文だった。けれど最悪の回答であることは間違いなく、教師に呼び出されて叱られたのを覚えている。
「馬鹿だよな、なんでもいいから書けばいいのに。嘘吐くの下手だったんだ、昔は」
いらぬところで正直に話すこともあれば、下手くそな嘘を吐いてすぐに露呈することもあった。総じて、嘘を吐くのが下手だった。
けれど今は違う。仁の10年越しの成長は、嘘を上手く吐けるようになったこと。あのとき吐けなかった嘘を、今度は上手に吐いたのだ。
成長したろ、とあえて軽快に笑うと、新はその軽薄さを咎めるでもなく呆れるでもなく、ただじっと見つめていた。
無の表情に、これはいったいどんな感情なのだろうと、仁は少し不安になる。そういうときは笑ってごまかすのが得策と、無意味に笑ってコーラを飲み干した。
「よし、そろそろ行こうぜ。足は動くか?」
「……筋肉痛になりそうだ」
「俺もうなってるかも」
よろめきながら立ち上がったふたりは、ファミレスを出ていつもの帰り道を辿る。すっかり日は落ちていて、駅前こそ明るく輝いていたものの、そこから離れるにつれて家々の穏やかな灯りばかりになる。周囲の人気も数えるほどだった。
帰り道では互いに無言だった。新は大抵自分から雑談などしないから、仁が話さなければそうなるのだ。仁は疲れのせいかぼうっとして、時折、今日の楽しかった出来事が脳裏をかすめた。
いつしかふたりの帰途の分岐点まで辿り着く。白い街灯の下で、仁は新に向き直る。
「じゃあな。今日はありがとう」
すると新は、じっと仁を見つめたまま押し黙った。新が思案するときはこうするのだと知っているが、では何を考えているのかと言われれば分からない。言いたいことでもあるのかと問いかけようとしたとき、彼は不意に口を開いた。
「やっぱり君の作文は、あながち嘘でもなかったと思う」
「……え?」
言われた言葉の意味を考えて、けれど理解できないまま、仁はきょとんとした。あの作文はほとんど嘘だ。宿題を出されたことだけが真実で、それに対してきちんと回答などしなかったし、10年後に叶えたのだって今日の後付けだ。
ほとんど嘘。なのに「あながち嘘でもない」なんて、何を言い出すのか。
困惑する仁に、彼はゆっくりと、秘密を紐解くように、告げた。
「10年前の小さな君は、最高に楽しい一日を思い描くことが出来なかった。けれど今、こんなにも楽しい一日を、君は思い描くことが出来る。昔に果たせなかった宿題を、10年越しに終わらせたんだ。俺は、それがなによりの成長だと思う」
今日は本当に楽しかったな。彼はそう微笑んで、分かれ道の先へ消えていく。
仁はといえば、その背中を見送って、見えなくなるまで、ついぞもうひとつの真実を明かすことが出来なかった。

――きっとそれはお前をはじめとした友人たちがいたからだよ、なんて。