『この場所を知る人ぞ』


10年ぶりに訪れたその場所は、当時となにひとつ変わらないように思えた。
実際には、記憶が曖昧なだけで、10年も経てば変わっているのだろう。けれど少なくとも、自身が大切に思っていた静けさや清浄さは、失われることなく残っている。

10年間、人はこの道を歩き続けた。
10年間、道はここにあり続けた。

それならもう時効だろ、と、ようやく諦めがついたような気がした。

   ***

「あのねー、あっちにねー、すっごいキレイなお花畑があったからー、おにいちゃんも行って! 川のそばにね、ちっちゃい白いかわいい花が咲いてるのー」
「……おう」
「お花ね、ちっちゃくて、かわいいんだよー」
「……おう」
どうしてこんなことになっているのだろう、と遼は仏頂面を浮かべながら困っていた。自分はただ公園のベンチに座っていただけなのに、なんの脈絡もなく知らない小さな少女がやってきたかと思うと、”ちっちゃくてかわいい花畑”とやらをプレゼンし始めたのだ。理由も目的も不明で、であれば対処の方法も分からず、ただ相槌を打つしか出来ない。誰か助けろ、親とかいるだろ、とあたりを見回せば、父親らしき男性がニコニコと見守っている。いや、止めてくれ。
しばらく少女のプレゼンを聞き、語彙が少ないせいか内容がループし始めたころ、やっと男性がやってきて「すみませんねえ」と頭を下げた。
「ほら若菜、ずっとおしゃべりしてたらお兄ちゃんが困っちゃうよ。さようならして」
「おとーさん! あのね、若菜ね、さっきのお花畑のこと教えてあげててね」
「うん、うん。お兄ちゃんも分かったって。ここでずっと話してたらお兄ちゃんが見に行けなくなっちゃうよ」
「そうだよね! お兄ちゃん、さよなら!」
持てるエネルギーのすべてを使い切ろうというくらいに、少女は元気に手を振った。遼は相も変わらず、どう反応していいのか分からないまま、「おう」と頷く。
そして親子が去ったあと、少し離れた場所に見知った顔が立っていることに気がついた。厄日か、と表情をこわばらせる。
「遼」
「……」
「遼」
立ちあがり、あくまで何事もなかったかのように通り過ぎようとした遼だったが、彼は見逃してはくれなかった。二度目の呼びかけと同時に服の裾を掴まれ、物理で引き止められる。
「んだよ」
振り払いざま振り向くと、彼――逢坂は気にした様子もなく言葉を続ける。
「偶然会ったんだから、少しは話そう」
「俺は話すことなんてなにもねえよ。お前と会ったら会話しなきゃいけないルールなんてねえだろ」
「まあ、そうだが」
「じゃあな」
“しっしっ”と手で追い払い、今度こそ引き止められないように大股でその場を後にする。「遼、」と声が追いかけてきたが聞こえないふりをした。
「そっちは先生たちが巡回しているから、行かない方がいいぞ」
――は?
思わず振り向くと、逢坂が丸い目でじっと見つめてくる。この先輩はつまらない嘘は言わないので、実際にこの先では教師たちが巡回しているのだろう。
けれど、どうして。
ここは青い木々が生い茂る自然公園の小径。何故学校とは縁のないここで教師が巡回しているのか。
面倒くさいところに来てしまった、と遼は深くため息を吐く。

   ***

ここは市が管理する自然公園だ。川の水源を中心にして、緑が豊かに生い茂り、遊具や売店、キャンプ場、自然保護センターなど、様々な施設が用意されている。遼の家からもほど近く、小学生の頃は何度か遠足に行かされた。
そんな自然公園で何故教師陣が巡回などしているかといえば、今日は学校の創立記念日だからだそうだ。この日は休校となり、うかれた生徒たちが野に解き放たれる。それでやんちゃをすることがあってはならないと、教師が生徒たちの行きそうな場所で見張るのだ。これが勤務時間ではなく志願制のボランティアだというのだから、余計なことをしてくれる。
巡回は駅前や繁華街が主らしいが、以前に自然公園でBBQ(禁止されている)をした愚か者がいるということで、ここもルートに入っているのだ――と、逢坂は説明した。「ちなみに鳩胸先生がやる気だったぞ」とエネミー情報も忘れずに。
そういうわけで遼は、教師と遭遇するのを避けて別の場所へ行く――ことはなかった。今日はこの公園で過ごすと決めたのだから、他人のせいで予定を変えるなどごめんだった。けれど遭遇すれば戦争は必至で、それも面倒くさい。
なので、逢坂を緩衝材代わりに連れ歩くことにした。たとえ鳩胸が現れても、彼を盾にすればいくらか時間は稼げるだろう。そう伝えると、彼は「君は正直だな」と感心しながら、「出来る限り遭遇しない方向で行きたいんだが」と申し出た。
「遭遇しない方向ってどっちだ」
「あまり人が来ない場所を知ってる。そこへ行こう」
逢坂はかなり曖昧に進行方向を指差してから歩き出す。人が来ない場所ねえ、と思うところはあれど、口には出さずに遼も続いた。
この公園は穏やかで、のんびりとした雰囲気だ。環境がいいため、市内の親子連れや老夫婦などを中心にいつでもひとけがある。この場所を静かだと評価する人がいる一方で、遼の基準では賑やかだった。
けれどひとつだけ、本当に人が来ない場所があった。朝から晩まで寝転がっていても誰も邪魔しに来ない場所。幼い頃の遼にとって、お気に入りの場所だった。
今はもう、長らく訪れていない。


「……人が来ない場所って、ここかよ」
――長らく訪れていなかったのに、今になって来てしまうとは。歩道から外れ、踏み分けられた獣道の前で、遼は思わずそう口に出した。
「君も知っていたか」
逢坂が意外でもなさそうにそう言う。知っているも何も、と遼は苦い顔をした。
この踏み分けられた草むらを進んで、木々の裏側に回り込み、川の近くまで行くと、そこには小さな花畑がある。花畑といっても自然に咲いているだけのこじんまりとしたものだ。けれど隠れた場所に咲いているのも相まって、秘密基地のような風情があった。
園内地図には載っていないし、看板があるわけでもない。けれど誰かしらが存在を知ってこの場所を訪れるらしく、獣道が絶えたことはない。知る人ぞ知る、という場所になっているらしい。
その一人である逢坂は、ほら、と指差す。
「ここなら先生たちものぞきには来ないはず」
そうして歩いて行こうとする彼の一方で、遼はそれ以上進めないでいた。ぼうっと佇んだままであることに気付いたのか、逢坂は目を丸くする。
「……遼?」
別に、なにも問題はない。気が進まなかっただけで、足が進められないわけではない。やっとのことで一歩を踏み出すと、それでも逢坂は気づかわしげに首を傾げた。
「どうした」
「……なんでもねえ」
「こっち、嫌か」
「別に。行くんだろ、とっとと進めよ」
“しっしっ”と手で追い払うと、彼は納得していない様子ながら先へ進む。ついていけば、目的の場所へはすぐに着いた。
さらさらと流れる川岸に、小さな白い花が咲き乱れている。柔らかく吹く風と、ささやかな水の音も相まって、過ごしやすい場所だ。
逢坂は静かに深呼吸をしてから、ちらりと遼を見つめた。
「……君、もしかしてこの場所知ってたか」
これだけ不自然な態度を取ってしまったのだから、当然なにかしら勘づくだろう。言い訳するのも面倒だし、そもそも言い訳の必要なんてないのだからと、遼は頷く。
「そりゃ、この公園にはよく来るからな。知ってるだろ」
「それもそうか」
「そもそもここを見つけたのは俺だしよ」
「……え?」
驚いて目を見開く逢坂の横で、遼は「どっこいせ」としゃがみこんだ。母に見られると「治安悪いわね〜」と嫌がられる座り方をして、緩やかに流れる水面を見つめる。
もういい。全部話してしまえ。
「……たぶん、俺が見つけた。ずっとガキのときだけどな。この公園に来て、でも他のガキがうるせえから、人がいないとこを探してたんだ。それで誰も歩いてねえような草むらを進んでって、着いたのがここだった」
もう10年も前の話だ。そのくせ鮮明に覚えているから、それなりに自身にとって印象的な記憶だったのだろう。
「そんで気に入って、通うようになった。誰もいねえし、声も届かねえし、居心地良いだろ。ひとりでゆっくり昼寝してよ」
だけど、と続けた声がわずかに低くなる。
「そうやって通ってたから、草が踏み分けられたんだろうな。道が出来たんだ。獣道だけど、その先に何かがあるって知らしめるには十分だった。そんで、いつだったか――、」
遼がこの場所にやってきたとき、別の誰かがいた。今となっては覚えていないが、普通の公園の利用客だったはずだ。別にこの場を荒らしたりはしていないし、特別騒いでいたわけでもない。ただ、風景を愛でていただけ。
――けれど、遼にとっては耐え難かった。
「ひとりでいられなきゃ意味はねえからな。人に知られた時点で駄目だった」
「……それから君は、ここに来ていないのか?」
「公園自体には来てた。どうせすぐ誰も来なくなって、道も消えて、またひとりになれると思ったから。……でもそうはならなかった」
――結局10年経っても、道はなくなんねぇんだな。
そう呟いたきり、その場には空白が満ちた。遼はただ淡々と話して、言うだけ言い切ったからと満足していたのだ。
だからしばしの空白を経て、逢坂が不意に「悪いことをしたな」と申し訳なさそうに言い出すから、驚いてしまった。
「は? なにがだよ」
「今の君にとって、ここは気の進まない場所だったんだろう」
「まあそうだけど」
「……出ようか。先生を避けるにしても、他に場所があるだろう」
「いや別に構わねえよここで」
「……俺が、お邪魔してしまっている気がして」
出てもいいか、と尋ねるので、別に断る理由もなく、遼は「いいけどよ」と頷いた。
前を歩く背中が少ししょんぼりしているように見えて、自分が言葉選びを間違ったことを理解する。別に恨み言を言ったつもりはないのだ。
けれど一度放ってしまった言葉を上手に訂正するすべなど、遼にはなく。何を言えばいいのかもやもやと考えながら、ただ後をついていく。
木々の影から出て、草むらを歩いていたときだ。ちょうど先ほど遼にプレゼンしていた少女が通りすがり、「あ!」と嬉し気に声を上げる。
「お兄ちゃんも見てくれた? お花畑!」
駆け寄る少女を見つめながら、遼は「あ」と声を上げる。あのとき延々勧められていたのはここのことだったのか。
ああ、うん、と曖昧な返事をすると、それでも彼女は嬉しそうにはしゃいだ。
「ここね、すーっごくひみつきちっぽかったでしょ! 若菜ねー、公園に来たらぜったいくるんだよ! だって若菜がここに道あるの見つけたから!」
「おう」
「お兄ちゃんも、他の人に教えてあげていいからね!」
「おう。……そうだ、訊きたいんだけどよ、」
得意げな少女を見て、ふと思い立ち、質問してみる。答えは分かっているけれど、それでも聞きたかった。
「好きか、ここ」
「うん!」
とびきりの笑顔とともに肯定される。そうかよ、と遼は頷いて目を細めた。
親子を見送ってから、逢坂を振り返る。
「……おい、先輩」
それまで意外そうに少女と遼のやり取りを見ていた彼は、不思議そうに首をかしげた。
「お前さ、さっきの、ちげえから」
「違うとは」
「10年経っても道がなくならなかったって、俺言ったよな」
「ああ、残念だが……」
「だから違くてよ」
そういうこと言いたいんじゃなくて、と遼は首を振る。言葉を間違えないように、慎重に選び取る。
「……いやまあ、残念なのはそうなんだけどよ。なんか、意外だったんだよ。どうせすぐみんな興味なくして、草に覆われて道なんかなくなると思ってたのに。そうならなかった。残念とかじゃなくて、ただ意外だったんだ」
ここは地図には載っていないし、看板があるわけでもない。名所には到底及ばないし、たくさんの人の手によって作られた場所でもない。誰も知らなかった、取るに足らない場所だった。
それなのに、なくならなかった。
獣道のむこうを見通しながら遼がそう語ると、逢坂も同じ場所を見つめながら目を細める。
「……意外だろうか。俺はここ、居心地がいいから好きだ。他にもそういう人がいるから、道がなくならなかったんだろう」
「そうなんだろうな、あのチビみたいに。だからなんか…………なんていうんだ…………」
言葉が出てこない。語彙がないなんて少女を揶揄している場合ではなかった。こんな感情を表す言葉は、そう、
「…………感慨深いっつーの?」
10年経ってもなくなんねーもんなんだなーって思った。と努めてあっけらかんと言えば、逢坂は一瞬目を見開いた後、思わずといった調子で笑った。珍しい表情だな、と遼は思った。
「だから別にいまさら道がなくなって誰もいなくなれとは思ってねえよ。そうなったらそうなったで都合良いんだけどな」
「でも君、居場所がひとつ減ってしまったのはやはり残念だな」
「別に。んなもんいくらでも探してるしな。だッれもいねえ場所」
学校の中でも、街中でも、山中でも、どこでも。
そしてこの場所で得た経験から、穴場を見つけても痕跡を残さないように気をつけている。二度と他人には譲ってやらない。自分だけが知る場所にする。
――けれど。と、遼は空を仰ぐ。
ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、こうも思うのだ。

自分の見つけた小さなものが、10年経っても在り続けるのは、そう悪いもんじゃない――と。