『未来エレベーター』


 「あ、吉田! 吉田じゃない?」
 土曜日の昼過ぎ、駅ビル前。駅の利用者とビルの買い物客でごったがえすそこで、吉田は自分の名前が呼ばれるのを聞いた。
 けれど町中で名前を呼ばれる心当たりなどなく、珍しくもない名字なのもあって、無関係だろうと無視をする。
 「吉田ー! おーい無視しないでよー」
 「……先輩、呼ばれてませんか」
 「吉田、誰かが呼んでるぞ?」
 隣を歩く後輩――逢坂が、躊躇いがちに服の裾を引いた。もう反対側を歩く友人――司は大きな図体を丸めて顔を覗き込んでくる。両側からそうされれば、さしもの吉田も無視しきれない。
 「なんだよもう、誰が――」
 「やっほー」
 「うわあ」
 不機嫌を隠しもせずに振り返れば、知らない顔が目の前にあったものだから飛び上がってしまった。跳ね上がった心音を抑えながら見やれば、彼女は吉田の素っ頓狂な反応にも動じず、鷹揚に笑う。
 「相変わらずだね、吉田は。昔と比べればずっと大きくなったけど、雰囲気が変わらないからすぐ分かったよ」
 「え? は?」
 「もう10年くらい経つのかなあ、あれから。たまに思い出しては、今頃どうしてるんだろうなんて心配もしてたんだけど、元気にしてるみたいでよかったよ」
 「えっと……ええと……」
 「私はちゃんと覚えてたんだけどね。さては君、私のことを覚えてないな?」
 こちらの動揺と困惑は筒抜けだったのだろう、彼女はそう言って苦笑いをする。その唇の左側だけを釣り上げる独特の笑みは、不意に脳裏に過去の記憶を呼び覚ました。
 ――仕方ないね君は。そう言って苦笑いしながら、いつも手助けしてくれる女子がいた。はっきりとした顔立ちは思い出せないし、どこで出逢ったのかも覚えていない。ただ、吉田としてもそれなりに気を許していた、ような気がする。
 「……誰だっけ」
 ひとりごとのように呟くと、「ほらやっぱり」と今度は楽しげな笑いが返ってくる。周囲は人でごった返して賑やかなのに、彼女の声は不思議とよく通るようだった。
 “やっぱり”と笑われてしまったが、そこには少々の誤解がある。吉田は彼女を覚えていないからそう言ったのではなく、思い出しかけたからこそ言ったのだ。ふたりがいつかの知り合いであることは、疑いようもない事実だった。
 では誰なのか。こと人間関係については記憶力がお粗末な吉田だ、手がかりが笑顔ひとつでは手も足も出ない。渋い顔になってなかば睨むように見つめていると、彼女は「仕方ないね」と懐かしい調子で言った。
 「藤井だよ。小学校低学年のとき、よく一緒にいたでしょ。一番仲がよかったと私は思ってるんだけど、思い出せないかな?」
 「藤井……」
 「高学年からはクラスが離れちゃって、あまり話せなくなったけどね。……というか君、あれだけ一緒にいたのに忘れるって、低学年の記憶をほぼ失ってない?」
 「いや、なんとなく思い出してきた。そういえばいたな。やたらと世話焼いてくる女」
 おぼろげながら記憶の糸が繋がったような気がする。幼かったころ、あまり要領がいい方ではない吉田が困っているとき、守ってくれたのが彼女だった。明るく、穏やかで、吉田が素っ頓狂な悲鳴を上げても動じない。今思えば、司のような頼りがいがある少女だった。
 当の司を振り返ると、逢坂とともに少し離れたところから物珍しそうな目で見つめている。吉田が司を経由しないで他者から声をかけられることなどないから、意外なのだろう。
 「あの子たちが今の友達?」
 吉田の視線を追ったのか、藤井がそう言う。まあそうかな、と答えると、なにがおかしいのか声を上げて笑った。
 「なるほどねえ」
 「な、なにがおかしいんだよ」
 「いや、やっぱり変わらないなと思って」
 理解不能のことを言った彼女は、そのまま吉田の横をすり抜けて司たちの方へ駆け寄った。あ、と振り返るころには、彼ら三人が対面している。
 「こんにちは。吉田の友達だよね」
 「うん? ああ、そうだよ。君は?」
 「小学校低学年の頃の友達。久々に見かけたから声をかけちゃって」
 「へえ、そうなのか! 低学年ってずいぶん昔だな…よく分かったな?」
 「だって変わってないんだもん! 昔からあんなんだったよ」
 「あはは、そうか。まあ吉田って変わらなそうだもんなあ」
 「多分10年後もあんなんだと思うよ」
 「だろうなあ」
 好き勝手に喋ってから、わはは、と笑い合う。今知り合ったくせにワケ知り顔で通じ合っているのが腹立たしい。かといって割り込んでいくのも気が引けて、恨みがましく見つめるしかできなかった。
 しばらく吉田についての雑談に華を咲かせたあと、藤井が「それじゃそろそろ」と時間を気にする素振りを見せる。
 「突然呼び止めてごめんね。ほっとけないかんじなのは相変わらずだけど、元気にしてるみたいで安心したよ。司くんたちも、吉田をよろしく」
 じゃあね、とひらひら手を振って、藤井は雑踏へ消えていった。憮然とする吉田の一方で、司は呑気に手を振り返している。
 「司! なに勝手に僕のことで笑い合ってるんだよ。やめろよ、なんか意気投合するのは」
 「そんなこと言ったって、あの人の言ってることがよく分かるからさ。吉田って10年前からこんなかんじなんだなあって」
 「こんなかんじってどんなかんじだよ」
 「それはもう……こんな……かんじ?」
 「首をかしげながら指をさすな。……はあ、なんだよもう。こっちは大事な用事があるってのに、能天気な……」
 吉田は眼鏡を押し上げ、いまだに入場すら出来ていない駅ビルを見上げる。地下の食品売り場から階を上るごとに化粧品、衣料、本屋、メガネ屋、雑貨屋、キャラクターショップなど様々な店が入居し、最上階である10階はレストラン街となっている。吉田たちの地元にはこんな大きな駅ビルはないので、わざわざ電車に乗ってきたのだ。
 大事なのは中に入っている店ではなく、階数だった。
 「先輩、エレベーターを探すんですよね」
 「うわ」
 至近距離から話しかけられてつい声が漏れた。振り返ると逢坂がいて、「いちいち驚かないでください」と生意気を言ってくる。別に人から話しかけられるたびに驚いているわけではなく、逢坂の存在感がないせいでそこにいることを忘れるから驚くのだ。この少年、多人数でいると途端に話さなくなる悪癖があった。
 鼓動を落ち着けながら、「そうだよ」と質問を肯定する。
 「どのエレベーターでもいいわけではなくて、東館地下の南側、一番右側。このエレベーターの前で待つ」
 「だけど、」と話し出したのは司だ。「これだけ人が多いと、なかなか難しいだろうな」
 「そりゃ簡単に再現できるようなら、そもそもならないだろ――怪談になんて」
 もう一度ビルの10階を振り仰ぎながら、目を細める。この賑やかで明るくて活気に満ちた場所にも、怪談というものはあるものだ。


 ――○○駅ビル東館地下の南側には、未来に通じるエレベーターがある。
 いつもは買い物客でごった返しているそこだが、不意にあるとき、人気がなくなることがあるのだという。そのときひとりで一番右のエレベーターに乗り込むのが、不思議な出来事を起こす条件。
 エレベーターに乗り込んだら、1階から10階までの好きな階数を押す。このとき、押し間違えたからといってボタンのキャンセルコマンドを押してもキャンセルされない。逆にキャンセルされたならば、上手く未来エレベーターに乗れなかったということになる。
 ボタンを押すと当然エレベーターは動き出し、目的の階につくまでは決して止まらない。そして目的の階についても、止まるだけで扉は開かない。
 このときすでに、乗っている人は未来についている。実は、押した階数は年数を現していて、1階なら1年後、4階なら4年後、7階なら7年後についているのだという。開かない扉のむこうには未来の自分がいて、耳を澄ますと音だけが聞こえてくる。
 例えば1年後の今、高校の合格発表を喜んでいる自分の声が聞こえてくるとか。
 例えば4年後の今、海外にいて外国語が聞こえてくるとか。
 例えば7年後の今、踏切の前にいて警告音が聞こえてくるとか。
 目的の階に辿り着いた後は、別の階数を押して別の未来を聞くことも出来る。1階、2階、3階と上がっていって、1年後、2年後、3年後と人生を辿っていけるということ。
 もう一度地下1階に帰れば「今」に戻ってくることが出来る。


 今日、吉田たちが駅ビルへやってきたのは、この怪談を検証するためだった。なにも肝試し気分できたわけではないし、吉田としては怪談が嘘でも本当でも構わないのだが、部活で”怪談を実際に検証してみた”とかいう企画が立ちあがってしまったから仕方ない。やらないわけにもいかず、比較的安全そうな日中の駅ビルが舞台となっているこの怪談を選んだというわけだ。
 「とにかく行くぞ。人がいなくなるまで待たないといけないんだから」
 「ああ、頑張ろうな」
 司の朗らかな笑顔は、とてもこれから怪談の検証をしにいくようには見えなくて、どうも今日は駄目そうだな、と思った。

   ***

それからさっそく駅ビルに入った三人は、くだんのエレベーターへ辿り着いた。当然周囲は人ばかりで、エレベーター前にも数人の客が箱が下りてくるのを待っている。彼らがエレベーターに乗り込んでも、またすぐに次の客が来る。吉田は少し離れたあたりで壁に背を預けて注視しており、司と逢坂もめいめい同じように見張っていた。
なんの面白味もないエレベーターを見守るのはなかなか苦行で、この検証に乗り気でないこともあり、すぐに飽きが来る。司と逢坂も同じらしく、いつの間にかふたりは少し離れたところで雑談を始めていた。
「でも驚いたなあ、吉田の昔の友達と会うなんて。10年くらい前だってさ」
「小学校低学年の友達が、高校生の先輩を見ても分かるって、よっぽど変わってないんですね」
「まあ、吉田って我が道を行くってかんじだからな、変わる要素がないというか。俺もたぶん10年後に吉田見ても分かると思うし。……でも吉田の方は俺のこと忘れてそうだなあ」
「そうでしょうか」
「まあ吉田ってたぶん、あんまり人に興味ないからな。なんていうか吉田の記憶に残るには、怪異になるしかないんじゃないかと思うよ」
怪異になった時点で忘れてるだろ、とは突っ込まない。話を聞いていたと思われるのが嫌だった。
「でも司さんと先輩は、親友みたいなものでしょう。さすがに忘れないと思います」
「はは、だと嬉しいんだけどな。でも吉田って案外、俺みたいな友達が何人かいたらしいんだよ」
「仲のいい友達が?」
「うん。それこそ藤井さんみたいに、隣にいてくれる人。……あいつ、なんかほっとけないかんじって分かるだろ。もちろん一緒にいて楽しいから友達なんだけど、それだけじゃなくてちょっと心配になるっていうか……きっとそういう人が、吉田のそばには常にいたんだと思う」
――ほっとけない。
それは確かに、今まで何度となく言われ続けてきた言葉だった。
自分の性格が一般的な人間から少し外れていることは分かっている。あくまで”少し”だと自負しているけれど、その差異が気になる人間というのはいるらしい。気付けばいつでも誰かが気にかけていた。
『――康平はよかったねえ』
そう言ったのは、いつだったかの吉田の母だった。慈しむように言って、微笑んだ。
『康平が連れてくるお友達って、みんないい子だもんね。あなたはちょっと気難しい性格してるけど、今まで人間関係で辛かったことないでしょう』
『ないよ、どうでもいいし……』
『またそういうこと言って。……康平ってね、すごく運がいいんだって、私は思うんだ。人間っていろんな人がいるけれど、あなたのそばに怖い子がいたことは一度もないから。ぬくぬくぬるま湯で生きてるのよ、あなた』
『なんだよ、悪いのか?』
『ううん、全然。でもね、やっぱりそういうのは、あなた自身もいい子だからだと思うの。もらった分だけ、ちゃんと返せてる。……だからね、好きなものを熱心に見つめているのもいいけど、たまには周りの人のことも気にかけてあげなね』
なにもこんなときに思い出さなくてもいいのに、とエレベーターの扉を見つめながら思う。いつしか人がまばらになってきて、賑わいが遠ざかっていく。静かな中で聞こえるのは彼らの雑談だけだ。
「俺さあ、吉田が10年後に俺のこと忘れてても、あいつらしいなあって思うから別にいいんだよ。……いやまあ、だいぶ寂しいけど」
「俺は完全に忘れられていそうです」
忘れているというならば、彼らこそが今日の目的を忘れている。すっかり静まり返ったエレベーターホールの中、吉田は足音を響かせて司の肩を叩いた。
「おい、とっとと検証を始めるぞ」


チン、と軽快な音を鳴らしてエレベーターの扉が開く。内装はごくごく一般的なもので、おかしな様子は見受けられない。吉田はふたりを振り返って、「じゃあ行ってくるから」と宣言した。行くのは吉田ひとりで、ふたりはあくまで付き添いだ。
「いってらっしゃい、気をつけてな」
「戻ってくるときは地下1階ですよ」
エレベーターの中に乗り込むと、ちょうど扉が閉まっていく。手を振る司の姿が視界から消えたところで、大きく深呼吸をした。 別に、緊張する必要などない。失敗したって別の階につくだけだ。拍子抜けするだけでなんの危険もない。頭ではそう分かっているが、いざ怪談を検証しようとなると手に汗が滲んでくる。
もう一度息を吸って吐いてから、覚悟を決めて、まずは1階のボタンを押した。吉田を乗せた小さな箱は、機械音を立ててゆっくりと上昇していく。もしかしたらどこにも止まらないまま上り続けるんじゃないか、なんて妄想をし始めたころ、「チン」と音を立てて止まった。
どきりと心臓が跳ねる。そのまままたたく間に心拍数が跳ね上がるのを感じながら、扉を注視する。普通であれば、目的の階に到着したのだから開くはず。もしもこれが開かないならば……。
……そしていくら待っても、扉は開かなかった。
ごくりとつばを飲み込む。念のため「開」のボタンを押してみるが反応はない。息を落ち着け、静かに一歩踏み出し、扉に耳を当てた。
扉のむこうはとても静かだった。元のビルのような賑やかさは感じられない。ではどんな景色が広がっているのかというと、それを想像するだけのヒントすら聞こえなかった。
果たしてこの先は、本当に1年後の未来に繋がっているのだろうか。1年後の今、自分はいったい何をしているのだろう。
息を殺して、わずかな音でも拾えないかと苦心する。辛抱強く待って、待ち続けて、そろそろ別の階に行ってやろうと思ったとき――

ぱら、

と本のページをめくるような音が聞こえた。
これほど静かな中ですら、やっと聞こえるような音。それは少しの間隔を置いて、二度、三度と聞こえてくる。
1年後の自分は、どこか静かな場所で本を読んでいるのだろうか。確かに本はよく読むから、たまたまそのタイミングにかち合う可能性は十分にあるだろう。面白みのない未来ではあるが、この検証の目的は自分の未来を知ることではなく怪談を実体験することなので、この時点で成功といって問題なかった。
鼓動がいつもより少し早いのを自覚しながら、次は2階のボタンを押してみる。またエレベーターが上昇していく。
2階の扉の外からは、町中を歩いていると思しき賑わいが聞こえてきた。電車の音も聞こえるから駅前だろうか。ひとりらしく、同行者などの声は聞こえない。しばらく様子を窺ってから、3階へ。
3階ではパソコンのキータッチ音が聞こえてくる。なにか文章を作成しているのだろう。
続く4階では電車に乗っているらしく、がたんごとんと揺れる音が聞こえてくる。
それから5、6、7と順番に聞いていくが、どれもごく普通の日常で聞こえてくる音ばかりだった。どうやら自分はこれから大層平穏な日々を送るらしい、というのがこの検証で得られた副産物だった。
このまま漫然と生活音を聞いていても仕方がない、せっかくだからもう少し試してみよう。そう思い立った吉田は、続く8階ではエレベーターの扉を開けることを試みた。当然のことながら力負けして、疲労困憊で次の階へ。9階では思い切って非常通話ボタンを押してみたが音沙汰がなく、他にも階数ボタン以外は反応しないことを確認する。ちなみに8階、9階ともに、外の様子は代り映えしない。
とうとう10階――最上階までやってきた。慣れた様子で扉に耳をあて、なにか聞こえないかと意識を凝らす。おおむね静かで、遠くからかすかに波の音が聞こえてくるだけだ。もしかすれば海に関する不思議な出来事を調べているのかもしれない。
扉は開かず、ボタンは反応せず、では次は何を試そうか? そう思案して、「あ」と思いついた。
――向こうから音が聞こえるなら、こちらからの音は聞こえるのだろうか?
――たとえば呼びかけに反応はある?
予想としては、むこうには聞こえない。こういうのはえてして一方通行だ。けれど試す価値はある、と扉に手をつく。
まずは「聞こえるか」と訊いて、それからこの検証のことを話してみよう。相手が10年後の自分なら、なにか面白い話が聞けるかも――
そうまで考えて、はたと踏みとどまる。10年後というキーワードは、つい先ほども聞いたばかりだ。

(俺さあ、吉田が10年後に俺のこと忘れてても、あいつらしいなあって思うから別にいいんだよ。……いやまあ、だいぶ寂しいけど)
(俺は完全に忘れられていそうです)

彼らの雑談の答えは、おそらくこの扉のむこうに存在している。10年後の自分は彼らを覚えているのか、それとも記憶の彼方になってしまったのか。
あのふたりを忘れているとすればずいぶん薄情だなと自分で思う。藤井を忘れている時点でそうなのだ。目の前の興味にだけ意識をやって、隣にいる人をきちんと見なかった。記憶の奥底にはあるのだと思う、藤井との思い出だって今になって思い出してきた。……それでも。

――康平、と呼ぶ母の声が思い出される。

『好きなものを熱心に見つめているのもいいけど、たまには周りの人のことも気にかけてあげなね』
この扉のむこうに話しかけるとするならば、言うべきことは、きっと怪談についてではないはずだ。

「……あの」
ようやく言うことを決め、恐る恐る話しかけてみる。
「えっと、10年くらい前、僕は高校生だっただろ。そのときのこと、覚えてるか?」
不確かなものに話しかけるのには勇気がいった。虚空に向かって話しかけているかもしれないと思うと言葉尻がすぼむ。けれど、もしそこに未来の自分がいるなら伝えたい。
「高校のとき司っていう大男がいて、三年間一緒だった。逢坂っていう小さいのもいて、生意気なやつだった。もしかしたら10年後の僕は忘れてるかもしれないけど……」
(たぶん忘れてると思うけど)
「あんまりすっかり忘れると寂しがるだろうから、声かけられたら思い出してくれ」
そうまで言い終えた途端、急にとてつもない羞恥が襲ってきた。頬が熱くなり、手汗が滲む。
あまりにもいたたまれなくなって、衝動的に地下1階のボタンを押してしまった。あ、と即座に後悔したがもう遅い。むこうから返事があるかも確かめられないまま、吉田を乗せた箱はゆっくり下っていく。
果たして今の恥ずかしい言葉は、10年後の自分へ届いたのだろうか。それとも虚空へ消えたか、誰とも知れない誰かに聞かれたか。
分からないまま「今」へ帰り着き、扉は開いた。

   ***

「……じゃあ、怪談は本当だったのか!」
司が体ごと大仰に驚いて見せ、その陰に隠れるように逢坂も目を丸くしている。吉田が事の顛末を話して聞かせた――もちろん10年後の自分に呼びかけたくだりは省いて――末の反応だった。
「まあ、僕が白昼夢でも見てたんでない限りは」
吉田が肯定してやると、司はにわかに楽し気な笑顔になる。
「そうか、すごいなあ! 10年後の自分かあ……。まあ吉田は詳しいことは分からなかったみたいだけど、平和そうに生きてるのが分かっただけでもよかったよ」
「分からないぞ。最後なんて波の音が聞こえただけだから、もしかして海に落ちて死んでるかもしれないし。いや、自分の声なんてまともに聞こえてないんだ、もしかしたらもっと前から死んでるかも……」
「なんでネガティブに考えるんだよ! でもいいな、俺もやってみたいなあ。10年後の俺はどうしてるかな。やり方とかってあるんだったか?」
「やり方というほどのことはないけど、怪談の内容はこれだよ」
怪談が投稿された掲示板を表示して、スマホを渡してやる。司は大きな体を丸めてかがみ、逢坂と一緒に覗き込んだ。
しばらくうんうんと読み進めた彼は、やがて「分かった」と顔を上げる。
「ボタンを押すだけなら簡単だな。俺でも大丈夫そうだ」
「戻ってくるボタンが分からなくなりそうだなお前。地下1階だぞ」
「だ、大丈夫だって。それじゃ俺もやってみようかな」
能天気なくらい気軽な物言いに、吉田は呆れかえる。これはあくまで怪談だと分かっているのだろうか。
とはいえこれは吉田が試した通り、危険性のあるものではない。せいぜいアトラクション気分で楽しんでくればいいと、なにも言わずに見送る。
そして司がエレベーターに乗り込もうとした――その時。
「――待って!」
鋭い声が飛び、誰かの手が司の服を掴む。逢坂だ。「待ってください」と言い直した彼は、スマホの画面を吉田に向けた。
「この怪談、先輩が教えてくれたところから、まだ続きがあります」
――は?
訳が分からないままスマホの画面を覗き込む。そこには吉田が読んだ通り、エレベーターで任意の階数と同じ年を経た未来が聞けるという書き込みがある。
逢坂がその書き込みのメールアドレス欄をタップすると、そこにはメールアドレスではなく、長々と書かれた怪談の続きが表示された。


――ところでこの怪談には、ひとつ注意点がある。それは、指定した年数の未来がなかったときのこと。

あるとき、とある少年がこの怪談を実際に試したのだという。友人に通話をしながら、面白半分でエレベーターに乗り込んだ。
1階を指定して、目的の階について、けれど扉は開かない。扉に耳をあてて音を聞いてみると、ちょうど1年後にある高校の合格発表での様子が聞こえてきた。
怪談の通りになったことを喜んで通話先に報告し、今度は2階を押す。また未来が聞こえた。少年は調子に乗って3階、4階と階を上がっては、自分の未来を盗み聞きした。
7階の7年後では、踏切の警告音が聞こえた。話し声はなく、どんな状況かは分からない。つまらないと文句を言いながら、次は8階を押す。そしてエレベーターは上昇しはじめ――
がくん、と止まった。
それは7階と8階の間。驚いている間にエレベーターは落下しはじめ、どんどん地上へと近づいていき……。
最後には地面に叩きつけられ、乗っていた少年は死んでしまったのだという。
この階段の注意点は、自分がもう死んでいる未来を指定してしまうと、エレベーターが落ちてすぐに死んでしまうということだ。だから面白がって遠い未来を見ようとすると、もしかしたら明日すらなくなるかもしれない。
駅ビルは10階建て。10年先の未来まで聞くことが出来るが、欲はかかない方がいいだろう。


「……ひぇ」
ゾッと肝が冷え、思わず悲鳴が漏れる。この内容が正しいとすれば、場合によっては死んでいたということ。そしてなにより恐ろしいのは、故意に注意点を隠していたという悪意そのものだ。もしもはじめからこの注意点を読んでいれば、検証しようなどとは絶対に思わなかったのに。
慄く吉田の一方で、司は事態を飲み込むと、「つまり」と振り返る。
「吉田は10年後まで絶対生きてるってことだな!」
海に落ちて死んでないぞ! と彼はまるで朗報のようにいうから、吉田は呆気に取られてしまった。
同じ情報なのに受け取り方がこうも違ってくるのだから、司と自分はまるで違う人種なのだと実感する。逢坂は呆気に取られていたのでこちら側だ。
「お前まさか、自分も10年後まで生きてるか確かめてみるとか言い出さないだろうな……」
「いやあ、さすがにそれは。俺は丈夫だけど、人間なにが起こるか分からないからな」
ははは、と明るく笑う司に、吉田はため息を吐く。ちょうどその頃、不自然なほどに静まり返っていたはずのエレベーターホールに人の姿が戻ってきた。怪談の時間はおしまいらしい。
「……疲れた。企画のネタは出来たんだ、もう帰るぞ」
「ああ、お疲れ様」
「お疲れ様です」
労わりの言葉を背中に受けながら、不思議で恐ろしいエレベーターを残し、場を後にする。
駅ビルを出たところで、司が隣に並んだかと思うと、小声で耳打ちした。
「吉田さ、次になにか検証するときは、ちゃんと安全を確かめてからにしてな」
「……うん」
先ほどのあっけらかんとした様子からは一転して、心配そうに言うものだから、吉田も素直にうなずく。すると彼は安心したように表情を緩めて、「よし」と笑った。
いいやつなのだ、彼は。明るくて、大らかで、気が優しい。逢坂だってそう。物静かで、冷静で、気にかけてくれる。
「……思い出してくれよ、10年後の僕」
こんないいやつらを忘れてしまったら、それこそ薄情者みたいじゃないか。
忘れませんように、と願いながら、駅ビルの10階を振り仰いだ。