『親愛なる弟君へ』 始誕生日SS


――弟の様子がおかしい。
と、始が気付いたのは、中学二年生の夏休みも後半に入った頃だった。
その日は親が家におらず、始と新が二人きり。よくあることで特段珍しくはないのだが、弟は朝から部屋にこもっていて、いつも兄にひっついてくる彼にしては珍しかった。
昼食を用意し、弟を呼びに向かう。一人遊びが好きな子でもないのに、いったい何をしているのだろう――。形だけのノックをしつつ、はなから開けるつもりでドアノブに手を伸ばした。
聞こえてきたのは、いつもと違う返答だ。
「兄ちゃん、こっちこないで。部屋に入ったらだめ」
ドアノブをひねった状態のまま、かろうじて動きを止める。
眉をひそめながら声を投げた。
「……昼ができたぞ」
「もうちょっとしたら行くから、あっち行って」
「そうめんだぞ」
「うん。あとで行くから」
声には少し力が入っていて、始を遠ざけようという弟の意志が見て取れる。あの甘えたな弟が兄を遠ざけようなど、いよいよもって珍しい。
始は一旦、言葉通りに引き下がった。弟はそれから数分経つ頃には姿を見せ、変わった様子もなかったが、始の眉はひそめられたままだった。
食べ終わればまたこそこそと部屋にこもってしまい、始は見送りながらじっとたたずむ。
八月の正午、太陽は爛々と燃え、焦げたアスファルトからは陽炎が立ち上る。もやもやと揺らめく窓外を見つめ、涼しいはずの部屋で、こめかみを伝う汗を拭った。
――弟の様子がおかしい。

初めは反抗期かと思った。
あの甘えたがりのひっつきむしにも、ようやく成長の時期が訪れたのかと。五歳にもなって、遅れてきたイヤイヤ期がきたのかと。人間は保護者の後ろにくっついているだけでは生きていけない。反発し、反抗するくらいの気概がなくてはならない。そういう意味では、弟の態度は喜ぶべきものである。
だから始は全力で受けて立つことにした。
「新、そこに座りなさい」
呼び出して、リビングの床を指さすと、弟は不思議そうな顔をしながら素直に正座する。ちょうどクーラーの風が当たるのか、短い髪がそよそよ揺れた。
その真正面に立つ。腕組みをして、仁王立ちだ。
見上げる幼い弟を、鋭い目で見下ろす。
「……今日の夕飯はピーマンの肉詰めだ」
「ぴ」
弟がぴゃっと飛び上がった――ように見えた。実際には大人しくしていたのだが、表情と雰囲気のせいでそう見えたのだ。内心では間違いなく、飛び上がるほどの衝撃だっただろう。
可哀想だが、ここで手を緩めるわけにはいかない。せっかくの反抗期なのだから、超えるべき壁は高い方がいいし、やりあう相手は強い方がいい。
「今まではついつい甘やかしてしまっていたが、やはり躾はきちんとしなければならない。こどもは好き嫌いが多いものだとはいえ、お前のそれは目に余る。これからはお前が外で恥をかかないよう、厳しくしていくぞ」
「に……」
「俺に反抗するなら、それもいい。だが反抗するならば、それ相応の報いを受けることを覚悟するんだな」
甘えたな弟だったからつい甘やかしてしまったが、反抗する強さをもったなら話は別だ。どうせいずれは超えなければいけない壁、ここで乗り越えて見せろ、可愛い弟。
しかし始の思惑とは裏腹に、弟はおろおろと怖がるばかりで、いっこうに反抗する気配がない。始を見上げては、床に目線を落とし、服の裾を握っては、もじもじと指をいじくる。始に怒られるときは大抵そうするのだ。おかしいな、と思い始めたところで、とうとう目に涙が浮かんだ。
「……兄ちゃん、僕のこと、きらいになった?」
「そんなわけはない」
即座に否定するも時すでに遅く、弟は腕で顔をおおい、しゃくりあげはじめる。小さく揺れる肩を見つめながら始は思った。――たぶん、なにかを間違えた。
「新、すまない。今日の夕飯はお前の好きなものにしよう」
言いながら丸い頭をなでると、泣きはらした目が覗く。
「好きなもの?」
「ああ」
「ぴーまん、食べなくていい?」
「ああ。……今は」
「いま」
「俺の計画では、小学校を卒業するころには、人並程度の好き嫌いになっているはずだ。だから今後は厳しくやるが、今日のところは好きにしていい」
後々は覚悟しておけ。そう告げれば、弟はまた泣き出しそうになる。これではしばらく反抗期などこないな、と呆れた。

ではなぜ、彼は部屋にこもるのか。
次に思い浮かんだのは、なにかを隠しているのではないかということだ。それも、見つかれば兄に怒られるようなもののはず。
以前、弟が友達から勝手に子猫を貰ってきてしまい、返しにいったことがあった。彼はまだ、母が患っている“アレルギー”の意味をよく分かっていない。だから可愛いとか可哀想とか、そんな理由で軽率に連れてきてしまう。情操教育にはいいだろうが、この家で飼えるのはせいぜい魚くらいだ。
もし猫か犬でも匿っているとすれば、ここでは飼えないことを分からせるしかないだろう。弟が必死に庇う小動物を取り上げるのは、いささか良心が痛むが、心を鬼にすべきだ。
それでも弟がなにかを飼って愛でたいというのなら、それこそ魚を薦めればいい。鳴きもしないがあれでなかなか愛らしいし、それによって責任や優しさを培わせるのには賛成だ。
そうと決まれば善は急げ。さっそく弟を呼びだした。
「新」
彼は律義に、始の足もとに正座する。不思議そうな目を見下ろし、兄は言いつけた。
「魚にしなさい」
弟は一瞬目を丸くし、ぱちりとまばたきをしたが、素直にうなずいた。彼は言われた意味がよく分からなくても、兄の言いつけならとりあえずうなずくように出来ているのだ。
しゃがみこんで視線を合わせる。
「意味は分かっているか? 飼うなら魚だと言ってるんだ」
「うん。分かった」
「では、なんの魚がいい」
「……しゃけ」
「鮭? 金魚とかじゃないのか」
「だめなら、いわし」
「駄目とは言わないが、クマノミとか、もっと可愛いのがいるぞ」
「……ブリでもいいよ?」
やけに実用的な魚を挙げるな、と思った。弟の希望を否定するわけではないのだが、鮭や鰤を水槽に飼うのは、他ではそうそう見られない光景だ。あまり観賞用の魚を知らないようだし、一度店でいろいろな種類を見せてからの方がいいかもしれない。
そこまで考えて、はたと気付いた。
――多分、なにかを間違えている。
「新、なんの話をしている?」
「おさかな」
「どういうお魚だ」
「お夕飯に買うおさかなのはなしじゃないの?」
飼う。買う。日本語は難しいものだ。
弟の頭の中では、まだ先ほどの”今日の夕飯”の話題が続いていたらしい。それも致し方ない、説明が足りなかった、と猛省する。
「新、ちなみにペットを飼う気はあるか?」
「ううん」
あっさり首を振られたから、きっとあの部屋の中にも愛らしい小動物はいないだろう。
弟は立ち上がり、兄の腹に抱きつくと、首をそらして見上げた。
「兄ちゃん、なんのはなし? おさかなは食べない?」
「ああ、いや。そうだな、そろそろ夕飯の買い出しにいくから、なにを食べるか決めてくれ。お前の好きなものでいい」
「しゃけ」
「魚でなくてもいいぞ」
「ううん、しゃけがいい」
僕しゃけ好き。そう言って目を輝かせた弟に、始も頬が緩んだ。
「よし、鮭にしよう。それならムニエルはどうだ」
「食べたことない」
「美味いぞ。きっとお前も好きだ。食べてみるだろう?」
「うん!」
今日の戦果。
弟の喜ぶ食事のレパートリーが増えた。


   ***

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