放課後の鐘が鳴った。仁は教科書をカバンに放り込みながら、窓の外の青空を見上げる。
七月。空気の爽やかな初夏であり、草木が青々としはじめる。ただでさえ爽快な季節なのに、放課後ともなれば解放感もひとしおだった。うんと伸びをして、開けた窓から吹き込んでくる夏の空気を吸い込む。
割合、好きな季節だ。
そんな季節に、仁は生まれた。
次の日曜日が自分の誕生日だということを思い出しても、だからどうした、となんの感慨も抱かなかった。大した用事ではない、という予想は大当たりだ。楽しみでもないし、煩わしいとも思わない。成長するに従って冷めたわけではなく、昔からこうだった。
その日を過ぎれば、一つ歳をとる、日付変更線のようなもの。仁にとって誕生日とはその程度の認識である。
ただ――無関心ではいられなかった。どうしてなのか、その年齢変更線が近いことを知ると、毎年決まって意識しだしてしまうのだ。一週間後だな、三日後だな、明日だな、と妙に胸騒ぎがしてしまう。そして心がひりつくような感覚を覚えたまま当日を迎え、何事もなく過ぎ去る。ゼロまで数えても何も起こらない、無意味なカウントダウンをしている気分だ。
自分でも、自分の感情の動きが理解できない。ただ歳をとるだけでなにも起こらない日が、どうして頭から離れないのだろう。
――ざあ、と外から強い風が吹き込んだ。髪がめちゃくちゃに煽られ、たまらず窓を閉める。頭を振って息をつきながら、青い空を見つめた。

もしかすれば――、
なにかを期待、しているのだろうか。

「仁」
後ろから声をかけられ、はっと我に返った。振り返ると、いつもどおりの無表情と目が合う。きっと驚いた顔をしてしまっていただろうが、取り繕って笑った。
「新。なに、帰る?」
彼は言葉もなくうなずく。相変わらず無口な奴だと思うが、それでも出会った当初からすれば話すようになってくれた方だ。しかし無愛想ではないし、これが意外と社交的だから驚きである。
逢坂新。今年の春に転校してきた彼は、夏に踏み入りかけた今、すでに知人友人が広くいた。物静かな彼は、もちろんクラスの中心にいるタイプではないが、ひっそりと顔見知りが多いのだ。それが学外に遊びに行くレベルなのか、気軽に挨拶する程度なのか、それは知ったことではないが、気持ちは分かる。話しかけやすいのだ。
仁もそうだ。知人が多く、よく話しかけられ、賑やかに騒ぐ。学校での交友関係は上手くやれている方だと自負していた。
そんな仁と新にとって一番仲のいい友達と言うのが――、多分、お互いなのだろう。
「今日さ、駅の方寄りたいんだけど」
「なにかあるのか」
「ただの暇つぶし。いいだろ?」
「ああ」
二人は自転車登校で、途中までは道が同じなため、一緒に帰ることが多かった。そして仁の提案で寄り道をすることも、また多い。バイトがない日は暇なのだ。
駅の駐輪場に自転車を止めて、あとはあてもなくうろつくだけ。適当な店をひやかして、知らない店に入ったり、知っている店に入ったり。
しばらくそうこうしているうちに、いつの間にか時間が経っていたようで、西日の中で足をとめた。
疲れた。歩き尽くめの上、少し暑い。
どこかで休めないかと視線を巡らせば、いくつかの食べ物屋が目に入った。ファーストフードであるとか、ファミレスであるとか、どこにでもある施設だ。
ただ、新と遊ぶときに入ることはめったにない。理由は知れている。
「お前ってさー、その好き嫌いなんとかならないの?」
呆れたように言えば、新は視線だけ仁に向けた。
「いきなりなんだ」
「お前のせいで飯屋に入れない」
「好きに入ればいいだろう」
「お前、メニュー選ぶの時間かかるんだもん。選り好みしてさ。ピーマンとかナスとか、美味いんだから食えよ」
「休むだけなら茶でも飲めばいいだろう」
「ちょっと早いけど、夕飯食っちゃいたいんだよ」
「君の都合じゃないか」
「いいだろ。な。飯食おう」
「嫌だ。君がからかうから」
「ほら、お前のせいで飯屋に入れない」
「君のせいだろう」
「は?」
隣を歩いていた二人は、計ったように同時に向き合った。険悪な空気が流れ、互いに睨みあう。道の端とはいえ往来のただなかであり、通り過ぎざまに何人か視線を投げてよこした。
一触即発。少しでも動けば、この均衡が崩れる。
……そんなときにちょうど、ぐう、と音が鳴った。驚いて目を丸くすると、相手はぼっと顔を赤くして視線を揺らしている。
からかうのも悪い気がして、近くのファミレスを指差した。
「やっぱ、なんか食おうぜ?」

入ったファミレスで、新は仁よりも早く注文を決めた。
『焼きたてりんごのちいさなパンケーキ〜バニラアイス添え〜』だ。もちろんデザートのページに載っているものである。
「……なんでいきなりそれ?」
「君が早く選べというから」
だから彼は、絶対に嫌いなものが入っていないそれをチョイスしたというわけか。当てつけじゃないのか、と顔が引きつる。
「こどもかよ」
「甘いものは君だって好きだろう」
「そういう意味じゃねえよ」
「それをいうなら君の方こそ、」新の声は少し低められていて、苛立っているのが伝わってくる。まだ喧嘩は続いているのだ。いったいどんな反論をされるのか、と身構えた。
「オムライスが好き、カレーが好き、ミートスパゲッティが好き、ハンバーグが好き。まるで小さいこどもじゃないか」
「だから俺の言ってるこどもってのはそういう意味じゃなくて」
「俺はそういう意味で君がこどもだと思う」
「それこそ、それをいうならお前の方こそこどもだろ。俺は嫌いなものないからな。ピーマンが嫌い、にんじんが嫌い、トマトが嫌い、アスパラが嫌い。まるで小さいこどもじゃないか」
彼を真似て言ってやれば、苦しげに顔を歪めた。どう考えてもこの言い争いは彼に分が悪い。好き嫌いがあるのは褒められたことではないのだから。
新はこれ以上負け戦を続ける気はないのか、ついと視線をそらしてしまった。仁も追撃することはなく、やってきた店員にパンケーキとオムライスを注文する。
しばらくしてやってきたオムライスは、とろとろの卵にホワイトソースとデミグラスソースがかかっていて、とてもおいしそうだ。一口食べればふわりと旨みが広がる。グリンピースも入っていないから、これなら彼でも食べられたのに。
新もパンケーキを美味しそうに食べていたものの、デザートだから当然、メインディッシュとくらべて量が少ない。いくら小柄な彼でも物足りないらしく、早々に食べ終わって、仁のオムライスを眺めていた。
その視線から逃れるように、皿を自分の方へ引き寄せる。
「あげないぞ」
「いらない」
「じゃあ人の料理を物欲しそうな目で見るなよ」
「すまない」
新は思いのほか素直に謝って、そして仁へ視線をあげた。甘いものを食べたせいか機嫌は悪くなさそうで、先ほどまでのような険悪さはない。アイスティーを飲んでから、また口を開いた。
「君は小さいころから、そういったものが好きなのか」
ようやく普通の雑談だ。軽くうなずく。
「まあ、そうかな。ああいう美味しいものは、そう滅多に食えるもんじゃなかったし、やっぱり昔から好きだったよ。食べた日は、いいことあったなーってかんじ」
「外食しないのか」
「しないな」
「家で出ないか?」
「出ない」
ふうん、と新は軽く流す。
「君は、お子さまランチとか好きそうだ」
「食ったことないんだ。食べてみたいけど、外食しなかったから。お前はある?」
「ある。最近はない」
「最近あったらこええよ」
しばらく、料理についての雑談を続けた。普通に話す分には、彼との会話はとても楽しい。
ふと窓の外を見ると、完全に日が暮れていた。あまり新を待たせるのもなんなので、オムライスを大きく切り取ってほおばった。二口、三口と食べて、完食だ。
アイスコーヒーを飲みながら、背もたれに体を預ける。満腹になると動くのが億劫になるからいけない。
「……今は食べたいものなんて、自分で好きに食えるからな」
机の端のメニューに目をやる。オムライス、カレー、ミートスパゲッティ、ハンバーグ。なんでも美味しそうなものがそろっていて、自由に食べられる。ちょうど今のように。
「新は、それでも選択肢が狭いんだろうけど」
からかっても、もう彼は怒らなかった。そして次に言った言葉に、仁は目を細める。
「君に、食べられないものはないのか」
「……あるよ」
あるのだ、実は。
「さっき、好き嫌いはないと言っただろう」
「嘘――、じゃないよ。ホントのことしか言ってません」
「矛盾するじゃないか」
「しませーん」
「一度も食べたことがないのか」
「食べようとしたこともある。けど、どうしても駄目だったんだ」
新ははっと目を見開いて、そして心配そうに眉尻を下げた。
「……アレルギー?」
「あ、そういうのじゃない」
「なんだ」
「なんだとはなんだ。俺は結構真剣に悩んでるんだぞ?」
「そう」
「で、分からない?」
新は首をかしげて考え込む。思いのほか真剣に考えてくれているらしい。
そんな彼を見ているうちに、少々不埒なアイデアがひらめいた。
「新」
新は無言で視線をあげ、仁の顔を見て眉を寄せた。自分の顔は見えないが、いわゆる“ろくでもないことを思いついた顔”をしていたのだろう。にやけるのを隠そうともしないまま、身を乗り出した。
「なあ、ゲームしよう。お前が俺の食べられないものを当てたら勝ち。当てらんなかったら負け」
「なんだその不利な勝負は」
「いいじゃん。で、負けた方は勝った方の言うことをなんでも一つ聞く!」
そう言って笑った途端、隣のテーブルについていた女性たちがこちらを見て、わっと盛り上がった。自分が見目良いのは知っているが、それに加えて今はよっぽど良い笑顔をしていたのだろう。当然だ、こんな楽しいことを思いついたなら、最高の笑顔に違いない。
一方で新は、うつむきながら仁を睨みあげている。そんなみっともない顔じゃ女にそっぽ向かれるぞ、とはさすがに言わない。
彼は低い声を出した。
「どうしてそれにノらないといけないんだ」
「お前が勝ったら俺が言うこと聞くんだからいいじゃん」
「ヒントもなにもないのに」
「じゃあヒント。このメニューに載ってる料理です」
「え」
「期限は次の日曜まで。な、日曜日遊ぼう。で、そこで答え聞くから」
強引に話を進めれば、新は目を伏せてため息をついた。そのままなにも言わないから、肯定だと受け取っておく。
「決定な。次の日曜日までに、俺の食べられないものを当てるんだぞ」
――あの日曜日だ。
携帯のカレンダーを開き、次の日曜日を確認する。真っ白なそこに「ゲーム」と入力すると、楽しみで胸が躍った。
あの無意味なカウントダウンにも、少しは意義ができたようだ。

   ***

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