目を閉じて、寝ているような、起きているような、微妙な感覚を味わう。夢は見ておらず、感触や音は、外部から発せられる現実のもの。だというのに思考は現実的でなく、とりとめもないことをつらつらと、曖昧にこねまわしていた。
四月生まれ、か。
そんなにいいもんじゃない。
「……真っ先に年上になるっつってもな、そりゃ同学年だけの話だ」
なんとなく覚醒してきた頭で、そうつぶやいた。隣の先輩が振り返り、じっと見つめる気配がする。なにも言わない。
一度頭を振ると、眠気は急激に失せていった。まだ昼休みは終わりそうになく、桜が悠々と舞っている。遼は姿勢を崩し、あぐらをかいた足に肘をついた。
「上の学年は絶対、俺より年下になることはねえし。当り前だけど。同学年の中で最初に年上になったところで、一つ上の学年の中で最後に歳とったやつと、やっと同い年なんだ」
「……誰よりも年上というのは、無理だろう」
「そりゃな。俺だって、歳が上だから偉いとは思ってねえから、別にいいんだけどよ」
逢坂はうなずいた。なんのうなずきだかは分からないが、気にせず言葉を続ける。
「お前だって、今は俺と同い年だろうけど、すぐ引き離すんだろ」
当然の話と思われたが、思いもよらず彼は首を振った。
「いや。俺は三月の末なんだ」
“三月の末”がいつ頃のことだったかを考えて、目を瞠る。
「なんだ、ってことはだいたい一週間も離れてないのか? わりと最近ってことだろ?」
「そう」
「そんならほぼ同い年だな。先輩として敬う必要はねえわけだ」
「いや。俺は先輩、君は後輩」
言い聞かせるようなゆっくりとした物言いに、少し苛立った。遼に対して上から目線などもってのほかだ。
無視をして、食べ物を食べ終わったことだし、日課をすることにする。
慣れた動作で煙草をくわえ、ライターで火を灯そうとした。すると横から伸びた手がライターにかざされ、驚いて放り投げる。
「あっ……ぶねえな! 馬鹿か!」
先輩は澄ました顔をして、いましがた火をつけられそうになった手を振った。
「君は今日、何歳になった」
「は? 十七、だ」
「それなら、あと三年待たないといけない」
一週間も歳が離れていない彼は、いっちょまえに年上ヅラをして遼を見下げた。一気に苛立ちが膨れ上がり、目がつりあがる。
これだから四月二日の境界線が憎らしいのだ。そんなものさえなければ、二人はほんの数日歳が離れているだけの、ほとんど対等な関係だったのに。
遼が一年生のとき、彼は二年生だった。遼が二年生になったのに、彼は三年生になってしまった。一生追い付けない追いかけっこをしている気分だ。
煙草も吸えないままで、苛立ちは募るばかり。憂さ晴らしとばかりに力任せに彼の胸ぐらをつかみ上げ、怒鳴りつけた。
「俺がどうするかは俺が決める、口出しすんじゃねえ」
静かな校舎裏に、その声はよく響いた。表まで聞こえるほどではないだろうが、すぐそこの校舎の中なら、聞こえてもおかしくない。
だから“その人”は聞き咎めて、裏へつながる扉を勢いよく開けたのだ。
本当に瀬戸際だった。校舎に寄り添っていた遼の背中に、扉が当たりそうなくらいの近さ。
扉が死角になって、むこうから二人のことは見えていないだろうが、二人からもむこうは見えない。いったい誰だ、と煙草の箱を握りしめた。
その人は低い声で唸る。
「……おい、誰かいるのかあ?」
聞き慣れた声だった。朝礼や集会で、毎度生徒の風紀の乱れに憤っている。茶髪の生徒を見かければひっ捕まえて毟りはじめ、廊下を走る生徒を見かければラリアットをかます。恐怖政治の絶対王政、やけに胸筋が発達した彼は、その見た目からこう呼ばれていた。
「生活指導の鳩胸……!」
しい、と逢坂が唇に指をあてた。鳩胸は耳がいいのだ。
幸い遼のつぶやきは聞こえなかったらしく、どうやら校舎裏をぐるりと見回しているようだ。扉の後ろにいる遼たちは、このままなら見つからない。
「んん?」
濁点のつきそうな低い唸り。なんだよ、と胸の中で毒づく遼に、彼は答える。
「……あそこに落ちてるのはライターかあ?」
はっと前に視線を向けると、花びらに埋もれるようにして小さなライターが落ちている。先ほど逢坂に驚かされたときに投げ飛ばしたものだ。普通なら見つけられるはずもないが、鳩胸は目もいいのだ。
一気に状況は悪くなってしまった。ライターがあるということは、ほぼイコールここで煙草を吸っていた者がいたということ。教諭はそんな不届き者を逃がすはずもなく、この場を捜索しはじめ、間もなく煙草を所持した遼たちを見つけるだろう。
見つかったところで遼は気にしないが、一緒にいる逢坂が問題だった。もちろん彼自身は吸っていないにしても、共犯者扱いで罰は逃れられない。不良が一週間停学になるのと、優等生が一週間停学になるのとでは話が違った。
いっそカツアゲでもしてたことにしようか――。名案を思いついた遼を制するように、手がかざされる。振り向くと、遼の先輩が扉の陰から出て行こうとしているところだった。
――はっ?
驚く遼から煙草をむしり取り、止める間もなく鳩胸の視界へ入っていく。教諭が「逢坂か」というのが聞こえ、扉から少し姿を現した。
「先生、こんにちは」
なにやってんだ、と冷や汗が吹き出す。逢坂はまったく隠しもせずに、煙草の箱を持っているのだ。血まみれの包丁を持って交番に行くようなものである。
教諭は当然それを見咎めて、鼻息を荒くした。
「……また外からゴミが投げ込まれたのか!」
え、と思わず目を丸くした。驚く遼の一方で、逢坂は当然のようにうなずいてみせる。
「はい」
「まったく、だから高いフェンスを立てろと言ってるんだ。あの道を通るやつら、学校をゴミ捨て場かなにかと勘違いしてやがる」
「ええ」
「なんかの機会に逢坂も言っといてくれ。フェンス高くするなりなんなりしろって。松田のお気に入りのお前が言や、少しは気も変わるだろ」
「はい」
「しかし、せっかくの昼休みにこんな寂しい場所でどうしたんだ。今日は食堂でカレースペシャル大盛りデーなんだぞ。まあ、食券機に生徒が群がりすぎて壊したそうだから、これから様子を見に行くんだが。とにかく表に戻ったら、喫煙室のゴミ箱にその煙草捨てといてくれ。頼んだぞ」
「はい」
「よし、ありがとな」
教諭は逢坂の背をばしんと叩いてから、上機嫌そうに去っていった。
すっかりその気配が消えるのを待って、足音も荒く彼のもとへ駆け寄る。
「おい、なんだよあの鳩胸」
「なに、とは」
「あんな鳩胸初めて見たぞ。なんで笑顔なんだよ」
「普通の生徒にはあんなものだ」
遼の知る鳩胸は、頭髪を毟ったりラリアットをかましたり、腰パンする男子のズボンを奪い取ったり、スカート丈の短い女子のスカートを奪おうとして止められたり、そんな人物だ。まあ、そんなに暴走することはまれで、普段はもう少し普通の生活指導をしているらしいが。
とにかく、鳩胸に煙草を見せて無事でいられるとは信じられなかった。
「ありえねえ」
「あり得る。だって君、俺が煙草を吸うと思うか」
「思わねえ」
「そうだろう。日ごろの行いというのは、こういうときに意味がある」
その言葉は確かによく理解できた。もし彼がほんの少しでも、『隠れて煙草を吸うかもしれない』と思われてしまったら終わりだったのだ。そんなことをかけらも思わせずに、むしろゴミを拾った良き生徒として見られたのは、ひとえに日頃の生活態度のおかげだ。
逢坂は真っすぐ遼を見つめる。
「逆も、あるだろう」
見透かされているようで、顔をしかめた。逆、とはつまり、悪いことをしていないのに罪を負わされることだ。
彼は続ける。
「好きに生きる代償として、信用を失うのを君が良しとするなら、構わないが。この前みたいに『一年生の女子からカツアゲしていた』なんて受け取られ方をするのは困るだろう」
二ヶ月ほど前のことだ。あれは思いだしたくもない、恥さらしな出来事だった。
ようは、女子に校舎裏に呼び出されて、付き合ってくださいとお願いされたのだけれども、どうしていいのか分からず怒鳴ったという話だ。当の女子は嬉しそうだったが、たまたま通りかかった教員がそれをカツアゲだと勘違いし、問題になった。冤罪ということで無罪放免になったのだが、遼にしてみればいっそカツアゲということにしておいてくれた方がよほどよかった。
「思い出させんじゃねえよ」
「だから君も、日頃から素行には気をつけた方がいい」
また先輩ヅラだ。出会った当初からそうだったが、三年生になって余計に生意気になったように思う。
「うっせ。カツアゲすんぞコラ。それよこせよ」
おら。と手を差し出すと、彼は煙草の箱を背中へ回した。
「これは喫煙室のゴミ箱に捨てておけと、先生から言いつけられているんだ」
「それゴミじゃねえから」
「吸う人もいないんだから、ゴミだろう」
「ここに! いるだろ!」
また声を張り上げる。即座に嫌な予感がして耳をすませると、案の定土を踏む音がした。
反射的に身構えたが、しかしそれは人間にしたらあまりにも軽すぎる音で、眉をひそめる。よくよく音の主を探してみれば、少し離れた草むらを、猫が歩いていた。
校舎裏にはよく野良猫が迷い込んでくるのだ。彼らもまた、フェンスを乗り越えてやってくるのだろう。高くしたら登ってこられないな、とちらりと思う。
猫は遼たちの姿を見つけると、とてとてと歩み寄ってきた。灰一色の細身な猫だ。逢坂が嬉しそうな声を上げ、しゃがんで手を伸ばす。
猫はそれ一瞥もせずに通り過ぎて、遼の懐に飛び込んだ。
「うお」
「な」
尻もちをついた遼の腹の上で、猫はごろごろと喉を鳴らして寝転がる。ずいぶんと人懐こいから、もしかすると飼い猫が散歩に出ているだけなのかもしれない。
素通りされた逢坂は、へっぴり腰で片手を伸ばすというみっともないかっこうのまま、表情を固まらせていた。
しかしそれを笑えるほどの余裕はない。腹の上でもぞもぞと動く暖かい生き物をどう扱えばいいのか分からず、両手を無意味にさまよわせてしまう。遼もまた、はたからすればみっともなく見えただろう。
「どうすんだよ、これ」
「どうするもなにも、愛でればいいだろう」
「でもこいつ、やたら柔らかいぞ」
「結構なことだ」
これが困りものだった。遼自身はさして動物に興味がなく、むしろ鳴いたり臭ったりするところが好きでない。だが動物の方はやけに遼のことが好きなのだ。猫、犬、ハト、カラス、街中で見かける動物はだいたい遼を見つけると近寄ってくるし、下手すると群がる。幼少のみぎり、猫に群がられて潰されそうになったことを思い出した。
幸いここには一匹しかいなかったが、その一匹はまったく遼の上から退く気がなさそうだった。しかも逢坂が横に座り込んで猫を撫で始めてしまう。彼が無遠慮に撫でまわすその物体は、遼を下敷きにしているのだということを分かっているのだろうか。
「おい。人の上で勝手になにしてんだよ」
「俺の方に来ないから仕方ない」
「やるよ」
言うが否や猫の首根っこをひっつかみ、逢坂へ投げ渡す。しかし彼がキャッチした途端、その手を抜けだしてまた遼の腹へ乗り上げた。
「帰巣本能か……」
神妙そうに言う逢坂の肩をどつく。
「どうにかしろよ。いつまでもこんなのの座布団にされてたんじゃ休めねえだろ」
「構ってほしいんだろう。撫でてやれば、満足してどこかに行く」
そう言うならば、と灰色の腹をわしゃわしゃ撫でまわしてやる。さわるのが不安なくらいに柔らかく、どこに骨があるのかと疑問に思った。
二人分の手に撫でられて、猫は気持ちよさそうに喉を鳴らしている。逢坂の優しい手つきより、遼の乱暴な手つきの方が好きそうだ。撫でながら、こんな暖かな春の日に、桜の下で猫を撫でているなんて、平和すぎて馬鹿になりそうだと思った。
撫でているうちに、猫は目を閉じて動きが鈍くなる。まさか、と危機感を持つも遅く、丸まって動かなくなった。
「寝、るなよ……!」
そのタイミングで予鈴が鳴った。まるで試合終了のゴングのようだった。気持ちよさそうに眠る猫の前に、遼は完敗した。
大変だな、と呟いた先輩を振り返ると、彼は立ち上がって今にも去ろうというところだった。完全に他人事のつもりでいる。
「さて、俺は授業に行かせてもらう」
「待てよ、猫ほっとくのかよ」
「彼は俺でなく君を選んだ」
すました風に言っているが、ようはひがんでいるらしい。先輩風吹かしてといて大人げねえ、と青筋が浮くが、安らかに寝ている猫を一瞥して口をつぐんだ。

――少し強めの風が吹き、ざわりと桜が揺れる。吹雪のように降る花にまみれて、周りの景色が隠れてしまい、思わず目を細めた。
花ばかりの視界の中で、逢坂が背を向けるのが見える。かと思えば振り返り、猫を抱く遼を見下ろして、感慨深そうにつぶやいた。
「なかなか、君の誕生日はユニークだな」
「なめてんのか」
「いや、純粋に、楽しかったと思う」首を傾げて言葉を続ける。「来年も、こんなかんじで祝えばいいだろう?」
「馬鹿言え」
来年はもうお前いねえだろ。
口にする前に春風が吹く。桜吹雪が、すべてを埋め尽くしていく。


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Happy Birthday.

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