それが放課後のこと。数時間が経ち、もう一度待ち合わせ場所で出会ったとき、あたりはとっぷりと日が暮れていた。それもそのはず、既に零時まで一時間を切っている。まごうことない深夜だった。
待ち合わせ場所とはいうが、ようは現地集合だった。駅から少し離れ、住宅地にほど近いところに、その廃ビルはある。あまり人通りもなく、たまに車が通り過ぎて行くだけの静かな場所。怪奇現象の実験をするにはうってつけの条件だ。
逢坂には場所を軽く説明しただけだったから、もしかしたら迷うかもと思ったが、心配には及ばなかった。吉田の方こそ迷った末に十五分も遅刻し、そのときにはすでに、寒そうに白い息を吐いて待っていた。十一月の寒空の下で待たせたのは、さすがに申し訳なく思う。
時刻は二十三時十七分。二人は向き合い、そして廃ビルを見上げた。
「それじゃあもう一度この実験についてを説明しよう。まず、この廃ビルは、以前はコンビニと飲食店と薬局が入っていたらしい。けれど飲食店から出火し、半焼まで行かないまでも火事になった。幸い死者は出なかったけど、結構焼けたし、営業が難しくなってさ。いっそ取り壊してしまうかってときに、どうやら権利関係が怪しかったみたいで、持ち主が誰なんだか分からなくなってしまったらしい。いざこざとごたごたを繰り返すうちに、解決しようもないほど複雑になってしまって、最終的には放置されるようになったんだってさ」
そういうことは吉田にはよく分からないが、ようはケチのついた、あまりすっきりしない建物というわけだ。何より重要なのは、ここに立ち入っても、咎めるものは誰もいないという点である。
「そしてここからが本題だ。中に入れば分かるけど、荷物は完全に片付けられているわけじゃなくて、いらないものがそのまま放置されている。そしてその中に電話があるんだ。まあどんな店だって電話くらいあるだろうけど、今回大切なのは一階コンビニの電話と三階薬局の電話。まともに使われていたとき、もちろんこれらはなんの関わりもなかった。別の店なんだから、内線とかはないんだよ。でも使われなくなった今、どうしたことか、繋がってしまうことがあるらしい」
そこまで話したとき、逢坂が不思議そうに首を傾げた。まあ聞けよ、と手で制する。
「零時ちょうどは、時空が歪む。そのときそれぞれを電話を手に取ると、繋がるんだ。会話できるようになるんだよ」
「そんな、まさか」
「ちなみに二階飲食店の電話を手に取ると、焼け死んだ人の声が聞こえるっていう怪談もあるけど、これは創作だな。死者がいないのは当時のニュースでも確かだから」
「実験は、どうやるんです」
「簡単な話だ。どちらかが三階、一階の電話の前に待機して、零時になったら受話器を取る。それで交信できればこの怪談の正しさが証明されるし、できなくても創作であることが分かる」
「どちらが三階へ?」
吉田はちらりと逢坂を見やった。
「……僕がやる」
「よろしくお願いします」
やけに澄ました口調なのが憎らしかった。

さて、ここで雑談している時間ももうない。
暗い夜空に伸びる廃ビルを見上げる。黒く汚れているのは焼け跡なのか、老朽化によるものなのか。三階建ての小さなビルだが、夜闇に黒々とそびえ立つそれは、いやに迫力があった。
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。それに気づかないふりをしながら、一歩踏み出した。
「行こう。零時になる前に、準備をしておかないと」
後ろから確かに逢坂がついてくることを確認しながら、中へ踏み込む。砂か、ガラス片か、なにかが足元で耳障りな音を立てた。
ランタンの明かりを入れると、周囲に丸く光が広がる。逢坂も懐中電灯をつけ、あたりへ光をすべらせた。それによって見えてくる室内は、思っていた以上に乱雑で、とっちらかっていた。
空っぽの商品棚とレジカウンターが、この廃墟が元はコンビニであったことを教えてくれる。床には折り畳み式のイスが何脚か、そしてほうきやちりとりなどの掃除道具が投げだされていた。壁紙ははがれかかり、むき出しのそこにはスプレーで落書きがしてある。人目につかないここは、素行の悪い者たちのかっこうの遊び場なのだろう。
落書きを注視した。下に向かって伸びるやじるしだ。なにを示しているのかと近寄り、見下ろすと、ぼろぼろになった雑誌が落ちていた。
エロ本だった。黒いロングヘアの女が、裸のような水着を着て微笑んでいる。吉田はそういったものにまったく興味がないからなんとも思わなかったが、後ろから覗きこんだ逢坂が小さく悲鳴をあげた。その声の方に驚いてしまう。
「変な声出すなよ、びっくりするだろ」
言いながら、淀んだ空気にたまらずせき込む。埃と塵ばかりで、息をするのも一苦労だ。
あんな雑誌はどうでもいい。用があるのは電話である。どこにあるのだろう。カウンターか、控室か、おそらくそのあたりだ。
「探すぞ、逢坂」彼を振り返りながら、手を振って促す。「足元気をつけろよ」
「ええ、先輩も」
「僕は平気だよ」
がつん、と足が何かを蹴った。それでも気にしない。
「でも、俺ではなくて足元を見た方がいいと思います」
「平気だって。いくら僕だってそんな不用心じゃないから」
ばきり、と足が何かを踏み抜いた。それでも気にしない。
「どうしてこういうときばっかり、妙に自信があるんです?」
「なんだよ、僕になにか文句でも――」
がこん、と音がして、言いかけた言葉が飲み込まれた。ん? 足がなにかに引っ掛かってるぞ。しかも抜けない!
あっという間にバランスを崩し、あとは重力に呼ばれるがままだった。尻もちをつくまでに吉田ができたことといえば、ひええ、と情けない悲鳴を上げるだけ。
ついでに周りのものをひっつかんで、倒したり引きずったりぶちまけたり。いてて、と尻をさする吉田の上に、棚の上から雑誌が降り注いだ。大惨事だ。一度転ぶだけで、間違いなく今までの不良よりもよっぽど場を荒らしただろう。
雑誌――例によって様々なニーズに応える多種多様なエロ本――にまみれながら、自分の状況を確認する。思い切り転んで、受け身も取れなかった。しかし思いのほか痛みはなくて、ほっとする。
「はあ、びっくりした」
「びっくりしたのは俺です」
退いてください、と下から声がしたから、吉田はまた悲鳴を上げた。痛みが少ないのは当然で、なんとあの小さな後輩を下敷きにしていたのだ。
「あわわ……っ、お、おい、平気か?」
蒼い顔で上から退くと、彼は痛みに呻きながら身じろぎした。
少し距離があったから、巻き込まれるはずはないのにどうして。まごまごわたわたしているだけでなにもできないうちに、彼は勝手に起き上がった。腰に手を当てて顔をしかめているが、大事はなさそうだ。
「だ、大丈夫か?」
「先輩は。怪我、してませんか」
「僕は平気だけど……」
「俺も大丈夫です。次は気を付けてください」
受け身、とれないでしょう。そう言う彼の口調は穏やかで、怒ったり呆れたりしている風ではない。てっきり機械的な声で小言を言われるかと思っていたから、少し拍子抜けした。
「……次は気をつけるよ」
そう言ったのは本心だ。これ以上迷惑はかけられない。
だが、それから電話を見つけるまでの間に、三回彼に助けてもらう羽目になった。
しかし何回転んでも、彼は怒りもせず呆れもせず、ただ“大丈夫ですか”と穏やかに問う。どうしたのだろう、と吉田は首をひねる。分からない。


   ***

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