『祝福を君に』 千隼誕生日SS


目を覚ました。
眠気が尾を引かない、爽快な目覚めだった。がばりと布団をはねのけて、十二月の冷たい空気に体を震わせる。
いつもより世界が静かなことに気づき、時計に目をやる。文字盤を見て、ふにゃりと笑った。
現在朝の六時。わくわくしすぎて、いつもより一時間も早く起きてしまったのだ。
家の中はしんと静まり返り、まだ千隼以外の誰も起きだしていないようだ。起こさないように足音を忍ばせ、家を出る用意をすませる。制服の上に厚手のコートを羽織り、マフラーと手袋も忘れない。最後に耳当てをつければ完成だ。着ぶくれで雪だるまのようになってしまっているが、冬はこのくらい防寒しないと兄が許してくれなかった。
時間はまだまだあるが、一足先に家を出た。一歩出るだけで身を切るような寒さが吹き付け、体を震わせる。カイロを忘れたことに気付いたが、気にせずそのまま扉を閉めた。
早朝の街は、まだ日も昇らずに薄暗い。ちらほらと出勤する人や犬の散歩をする人がいるものの、日中よりはよほど静かだ。これから目を覚ましつつある世界の中で、一足先に起きたことが誇らしかった。
宇宙が透けるような青空を見上げて、白い息を吐く。約束の時間にはまだ早い。少し散歩をしてから、彼に会おう。
お散歩コースに入っていく千隼の足取りは、楽しげで軽やかだ。それもそのはず、今日は年に一度だけの特別な、千隼の誕生日なのである。美味しいものを食べて、プレゼントをもらって、みんなにお祝いしてもらえる、とても幸せな日だ。
特に今年は、何年もこの地を離れていたともだちがようやく帰ってきたから、なおさら格別だった。彼はもちろん千隼の誕生日を覚えてくれていて、先週ふと、いつもの無表情で言ったのだ、「今年はなにが欲しい?」と。
今年は、という言い方が、千隼にはいたく嬉しかった。幼いころの数年間、祝ってもらっていた続きが、また始まるのだ。長い空白なんてなかったように、当り前に続きをできることが、嬉しくて仕方ない。
新の問いに、千隼は少し悩んで、ぱっと思いついて、はにかみながら答えた。
「あのね、小学校のときみたいに、いっしょに学校行きたいなあ」
だから彼は今日だけ自転車を降りて、千隼の家に迎えに来てくれる。そして一緒に駅まで歩いて、電車に揺られて、学校へ行くのだ。その間はきっといろいろな楽しい話が出来るし、少し寄り道をしたいし、帰りもげた箱で待ち合わせをして、ちょっと遊んで帰りたい。帰ったら家族とケーキが待っているのだから、大盤振る舞いの誕生日だ。
楽しみにしすぎて、少し笑い声を洩らすと、白い息がふわりと舞った。今年は暖かい冬だったが、今日だけは気が変わったかのようにすこぶる寒い。カイロを忘れたのは失敗だったな、と少し後悔した。
それはさておき、さあ、どうしようか。一時間早く目が覚めたのだから、約束の時間までは一時間もある。
うきうきしたまま過ごす一時間は楽しくもあり、じれったくもあり。とりあえずいつも犬の散歩でよく行く公園に行って、アフガン・ハウンドのおばさんと世間話でもしてこよう。
寒さに体を震わせながら、冬の街に足音を響かせる。

それから慌てて自宅に戻ってきたのは、約束の時間から一分過ぎたときだ。案の定親友は、十分前には着いていましたという落ち着き具合で待っている。振り返った彼は、千隼を見て眉をひそめた。
「ちはや」
「おはよ、あらた。遅れちゃってごめんね」
「いや。おはよう」
「えへへ」
「それじゃあ、」
「うん」
「家に帰ろうか」
えっ?
驚きの声を出す前に、ぐらりと視界が回った。倒れそうになっているのだ、と気付いたときには遅く、持ち直せないまま地面が近づく。ぶつかるまえに、かろうじて新に受け止められた。
彼は千隼の額に手をやって、首を振る。
「自分で気がつかなかったのか」
「なんで、転んだ……?」
「顔がりんごみたいだ」
何故だか頭がぼうっとして、新がなにを言っているのか分からない。そういえばぼうっとしているのは、少し前からそうだった。妙に足取りがふらふらして、頭がぽやぽやして、だから約束の時間に遅刻してしまった。
やっと今の状態を悟った千隼は、恐る恐る笑顔を作る。
「おれ、元気だよ」
新はほとんど無表情で、少しだけ眉を八の字にして、言った。
「熱だ」

やだやだ、と弱々しく呟く千隼は、兄に担ぎあげられてさっさとベッドに放り込まれた。手早くヒヤリシートを額に貼られ、ベッドサイドに水を置かれ、病床生活がスタート。退屈で変化のないいつもの天井。いつもは優しく包み込んでくれる羽毛布団も、今は千隼を閉じ込める檻にしか思えない。
玄関から、兄が「やだやだ」とだだをこねているのが聞こえる。「ちーちゃんのそばにいたい」という彼に、母が「ダメよ、お仕事に遅刻したら怒りますからね」とぷんすか叱っている。「あらたんは一緒にいるのに」「新くんも学校に行きます。さあ、ちーくんも行ってらっしゃい」やがてばたんと扉が閉まり、騒ぎは途絶えた。
静かになってしまった家の中は、余計に千隼を悲しくさせた。明るくて賑やかな方がずっと好きだ。
今日の千隼は、症状からしてウィルス性の病に侵されたわけではなかった。特別寒い冬空の中をずっとふらふらしていたから、体が驚いて、調子をおかしくしてしまったのだ。いってしまえば自滅である。
「誕生日なのに。おれ、今日誕生日なのに」
鼻水をすすりながら言うと、新が顔を覗き込んだ。
「鼻をかんだ方がいい」
「ねえ、おれ、学校行けるよ。病気じゃないもん。すぐ治るから」
「そんな状態で外を歩いたら、また肺炎になる」
「へーきだよ」
言った直後に、へっぷし、とくしゃみがでる。それだけで喉と体全体が疲れて、余計に深くベッドに沈んだ。
差し出されたティッシュ箱からティッシュをもらい、鼻をかむ。そうすると余計に頭がぼんやりして、起き上がれそうもなく、さすがの千隼も無理だと悟った。
大人しくふとんを被ると、新がぽんぽんと腹のあたりを叩く。
「今日は残念だけど、学校ならまたいつでも一緒に行く」
「……うん。ごめんね」
「よく水を飲んで、寝ていてくれ」
「うん」
「それじゃあ、俺は行ってくる」
いつもどおりの無表情で言い、背を向けた。しかし扉のむこうに消えようというところで、またちらりと千隼の様子を窺う。
大丈夫だよ、と言ってあげたいが、声が出ない。そんなに心配しなくても、いつものことだから大丈夫なのだ。
もう彼は確実に遅刻をしてしまう時間になっている。それなのにいつも通りの無表情で、慌てた様子もなく、最後まで千隼を見守っているから、千隼の方がはらはらした。
早く行っていいよ、と思いながら寝たふりをすると、やがてぱたんと扉のしまる音がする。廊下を踏む、静かな足音が遠ざかり、消えていく。


   ***

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